k-takahashi's blog

個人雑記用

証言 〜1990年代のPS事情をソフト担当者の目から

アーク・ザ・ラッド(今週のトロステで紹介されていた、あのゲーム)のプロデューサーの赤川良二氏が、ファミ通で連載したインタビューをまとめて当時の様子を紹介している一冊。 同じ時期のPS最大の功労者である久夛良木健氏については麻倉怜士氏の著作*1があるが、その久多良木氏が「プレイステーションは、僕だけで作ったのではないよ。あのときのみんなが作ったのだよ」と言う、その「みんな」の一部を赤川氏の目を通して語っている。
もともと音楽系の人だから、音楽の話題とか多いです。アークのロイヤル・フィル収録の様子とかも書かれている。


色々興味深かった部分を幾つか。

任天堂問題

PS開発を語るときに必ず言及されるのが、任天堂の裏切りの件。1991年6月のCESで、ソニーとの交渉を袖にする形で「任天堂はフィリップスと共同開発すると発表」した事件である。本書では上品に「変心」と書かれているが、その脇に「betrayal」と副題が添えられている。

その件について、幾つか証言が掲載されている。

証言:田尻彬氏
任天堂との話は、かなり具体的なところまで進んでいたのですよね?
田尻:本当に生産の直前までいっていたのです。1億数千万円で作った金型もできていたし、カートリッジやコネクタなど、任天堂から買わないといけない部品が12点あったのですけれど、その部品の買付の交渉とかも私がやっていましたね。
ということは、任天堂にしてもその部品を売って商売にしているわけですよね。任天堂SONYという会社同士のビジネスがありながら、いきなり「フィリップスとやります」というのは理解に苦しむ話かと思いますが
田尻:完成したプレイステーションの実機を1週間ぐらい貸したことがあったので、これならば自分のところでできる、と思ったのかもしれないですね。(pp.28-29)

簡単に言うと、任天堂が握っていたスーパーファミコンの完全な権益から、「非ゲーム」の分野の権益をSONYに譲り渡すということです。(p.31)

丸山茂雄氏は家庭用カラオケ配信を想定していたそうです。

任天堂にしてみると、1990年の1月に結ばれた契約について、その後1年を経て改めて検討し直したところ、あまりにもSONYに有利な条件だったことに気づき、このまま履行するのは出来れば避けたいと考えたのではないかと想像できるのです。一説によると、当時の任天堂オブアメリカのトップだった荒川實社長が、この契約に対して強く反対したとも伝えられています。(p.32)

上述の麻倉氏の著作でも、荒川氏が出てきて久夛良木氏に対応する場面が出てくる。(1991年5月末と書いてある。上記CESの直前。)

任天堂としてはあくまでもフィリップス社さんと提携によるCD-ROM/XAという企画で開発しているものです。もし、SONYさんがこのシステムを採用しないのであれば、互換性はないでしょうね」(任天堂・広報担当)
即ち、契約不履行をすることなく、こういう形で、プレイステーションを「無力化」することこそが、この「フィリップスショック」の真相だったのです。
(中略)
このフィリップスとの提携がプレイステーションを無力化することだけが目的だったことは、後年証明されることになります。その後、いつまでたってもフィリップス社との提携CD-ROMマシーンは発売されず、正真正銘「幻の」マシーンになってしまったのです。(pp.34-35)

契約不履行にするとまずいのは、当時のスーファミの音源チップがソニー製だったから。任天堂が契約を不履行にしたら、部品供給を止められても文句は言えない状態だった。
そう捉えると、ここで米国で各種訴訟に携わっていて法務に強いNOAの荒川氏が出てきたことは腑に落ちる繋がり方だと思う。
本書にも、麻倉氏の著作にも出てこないが、荒川氏が中心になってプレイステーション潰しの手順を準備した、という推測はどうだろうか?


PSが発売された当時の他のゲーム機と比べたとき、PSが一番「非ゲーム」を切り捨てていたことを思うと、任天堂の決定は皮肉としかいいようがない。まあ、90年代になったあたりでCD-ROMを使って何かを、という話は「マルチメディア」という言葉とともに脚光を浴びていたと言うことはあるのだが。

DO IT !

やはり、PS開発史の中でよく出てくる大賀さんの「Do it !」。これもまあ、プロジェクトX的なお話だけで済むほど世の中、単純ではなかったわけです。

もちろん、大賀さんも事前に「本当にこんなことが可能なのか」ということを、SONYの結構偉い人、現場を離れている学者みたいな何人かに聞いているのよ。「ちょっと久夛良木さんと会って、話を聞いて私にレポートしてくれる?」と。(p.48)

よく書かれているのは、「久夛良木さんの売り言葉に激高した大賀さんが、買い言葉で行った」という説明なのですけれど、そんなに単純ではなかったと。
丸山 もちろん任天堂に対して、悔しさもあったと思うけど、それよりもやはり「筋がいい」かどうかの方が大きかったと思う。(p.49)

グリップ型コントローラ

サターンまでのゲームコントローラは平面上にボタンがついているデザインだったが、PSは奇妙な形をしたコントローラを用意していた。
これも大賀さんが強く押したという話は伝わっていたが、具体的なエピソードが書かれていた。

大賀さんがこう言われました、というメモを持って事業に行ったのですが。それでも事業部の意見は変わりませんでした。この後、事業部は大賀さんに、サイド従来型の平面的なコントローラの模型をお見せして、「事業部としてはやはり従来型でいきたい」と訴えたのですが、その模型を放り投げられまして(pp.93-94)

藤澤 その頃はデバッグも兼ねて、いろいろとやらなければいけないことがあったのですが、そのうちの一つが起動音の作成でした。
全世界で1億人以上が聞いたあの起動音が、デバッグを兼ねたものだったとは
藤澤 「そろそろ起動音が居るので頼みます」と言われました。構想一月、制作期間は約1週間と行ったところですね。
苦労された点は?
藤澤 家庭用のゲームマシンですから、どんなテレビにつながっているか分かりません。つまり、どんなテレビでも良い曲として聞こえるようにしないとだめなんです。モノラル14インチの小さいテレビでも綺麗に聞こえて、逆にちょっと良いテレビなら、SONYならではのいい音を楽しんで貰う、といった具合ですね。
あの起動音は得も言われぬ味がありますよね。
藤澤 まず低音があって、上の方の音もあって、最後はキラキラとした感じで終わりつつ、気持ちの良い揺らぎがずーっとある。専門的に言うと、この曲のキーとなっている音は、いわゆる癒やし系の純正律なんですよ。(pp.109-110)

で、この人達が、パラッパを作るに至る。ちなみに、パラッパのシステムの特許を取ろうという発想はなかったとのこと。

セガ

本書には、SEGA関係者としてゲームアーツの宮路洋一氏が登場する。宮路氏の話は当時のセガサードパーティの立場を語るもので、これはこれで面白い。技術的な質問も、詳細が書かれていないが結構妥当なものだったようだ。


ただ、いまだによく分からない、「任天堂の裏切り騒動のあと、SONYセガとどういう交流をしていたのか」については本書にもほとんど書かれていなかった。


状況証拠的には色々あるのだけれど、その辺はちゃんとまとめられた情報がないんですよね。誰か書かないかなあ。

*1:

ソニーの革命児たち―「プレイステーション」世界制覇を仕掛けた男たちの発想と行動

ソニーの革命児たち―「プレイステーション」世界制覇を仕掛けた男たちの発想と行動