k-takahashi's blog

個人雑記用

戦艦武蔵

戦艦武蔵(新潮文庫)

戦艦武蔵(新潮文庫)

昭和三十八年秋、友人のロシヤ文学者泉三太郎から戦艦武蔵の建造日誌を借用した。この日誌は、終戦後米軍が進駐してくる直前、かれらに押収されることを恐れて焼却されるはずのものであったが、建艦に携わった長崎造船所の或る技師が、その貴重な資料が永遠に消滅するのを惜しんで秘蔵しておいたものなのである。(あとがき、より)

そして、本書の刊行はさらに8年後の昭和四十六年(1971年)になる。10年近くの取材については別の本にまとめられている。この辺の本に共通する話だが、関係者が多く存命であり、さらに政治的な事情もあり記述については常に注意が必要ではある。


上記の事情もあってか、全体の半分以上が建造についての話になっている。(全3688のうち、海軍へ武蔵を引き渡すのが2632で、70%あたりの場所になる)。

長崎に行ってみると分かるが周囲が山で見下ろす形になる。そこに秘密の建造を行おうというのだから、防諜が大変なことになる。ことに長崎という場所は開国の経緯もあって外国人が多い。有名なグラバー邸もその一つで、海軍はグラバー邸のうち海がよく見える建物は借り上げてしまう。他に米英領事館については、巨大な倉庫をたてて目隠しにしたりしている。
本書の冒頭は、

昭和十二年七月七日、盧溝橋に端を発した中国大陸の戦果は、一ヶ月後には北平を包み込み、次第に果てしないひろがりをみせはじめていた。
その頃、九州の漁業界に異変が起こっていた。
始め、人々は、その異変に気付かなかった。が、それはすでに半年近くも前からはじまっていたことで、ひそかに、しかしかなりの速さで九州一円の漁業界にひろがっていた。

とある。その異変とは棕櫚の繊維を何者かが買い占めているという話。
これが長崎の造船所で武蔵を隠すために使われていたという話。とにかく、船が大きいので量が半端ではなく、さりとて事実を公開することもできなかったということなのだ。


そうまでして武蔵のスペックを隠す必要があったのは、仮想敵国である米国がパナマ制限で戦艦の大きさに上限ができているのを見越して、そこに完全に優越できる船を作るという計画だったから。もし計画がバレて米国が対抗建造を始めてしまったら戦略が大きく狂ってしまう。
実勢には、大型艦を作っていることはバレていたようだが、7万トン級46センチ砲というスペックを最後まで掴ませなかったそうだ。


情報秘匿の徹底は、図面の紛失の騒動の大きさ、作業進捗に支障をきたしてまでも管理を徹底したこと、進水式も極めて簡略化した形で軍楽隊の演奏もなしだった、といった記述からも分かる。挙げ句の果てに、沈没後の乗組員までも徹底的に管理されたという。
実際、終戦までの日本人に大和・武蔵のことはほとんど知られていなかった。(「長門陸奥は日本の誇り」という言われ方だった。)


ただ、建造中に日米海戦。真珠湾、マレー海戦、ミッドウェー戦があり、就役の昭和17年8月5日には、信濃の空母改造も決定していた。そういうころ。

就役後は、油の都合もありほとんど実戦に出る機会はなかった。
だが、あまりの巨大さ、台風をものともしない安定さ、などから乗員の信頼は絶大だったようだ。



第十三章の最後、作戦前の訓練のシーンでは、

それらの夜明け前から夜遅くまでつづけられる猛訓練は、悲壮な突撃戦法を暗示するものばかりであった。(No.3110)

とある。そして、最終の十四章へ。


最期はよく知られている通り、捷一号作戦に参加、昭和19年10月24日シブヤン湾で没している。
沈没後の救難活動が思うに任せないシーンも、繰り返されたモチーフ。