k-takahashi's blog

個人雑記用

セガ家庭用ゲーム機開発秘史

 

 2001年から2003年までセガの社長を担当していた佐藤秀樹さんの自伝。自伝といってもセガ時代の話だけで1971年から2003年まで。
主にハード開発を中心にした昔話を色々と披露している。もちろん、自伝だし、記憶違いや記載漏れはあるはずだし、そもそもの関心がハード中心なのでゲームビジネス自体はあちこち妙な記載もある。なのでこれが真相と言い切るわけにはいかないが、色々と面白い。

 

1973年のアタリのPONGを、回路図丸パクリで複製して「セガポントロン」として売った(タイトーの「エレポン」も同じ経緯で出ている。このどちらかが日本発のビデオゲームだそうだ)。

 

 あとを読んでいくと、やはりセガという会社はアーケードゲームの会社で、少なくとも佐藤さんは完全にその意識でいたことが分かる。

価格に関してこんなことが書いてある。

100円玉が100個、200個入る機械を30万円で売る必要はない。50万円でも安すぎる。昔のゲームセンターおやじ連中の考え方では、だいたい3か月で元がとれればよかった。そうすると、1日3万円入るのならば1か月で90万円、3か月なら270万円になるわけだ。となれば、たとえ原価が50万円のものでも、150万円で売ろうが200万円で売ろうが構わないわけだ。(p.62)

 この考え方自体はおかしくない。コストではなくベネフィットによって価格が決まるというのはむしろ当然。コストが多少上がったってそれで価値があがり、かつそれが変える範囲なら全然オッケーだ。但し、それはビジネススタイルによって変わるわけで、少なくとも1990年代のコンソールビジネスには合っていなかった。

 

 

テトリス騒動についてはELORGのことが書かれている。コイル裁判のことも書いてあって、こっちでは57億円払わされているのだが、

コイル氏の件以来、金で片付くんなら片付けてしまえ、と考えるようになった。その方が、最終的な費用としては安く付くことが多いのだ(p.96)

と、ちょっとなげやり。

 

それより気になったのが、メガドラが売れた後の話。この後の迷走感がかなり酷い。例えばドリームキャストの開発。入交社長と佐藤氏の意見が合わないのに、佐藤氏が大川会長とくっついて社長の方針をひっくり返し、なのに入交氏がそのまま社長を続けるというわけのわからなさ。

このあと、2000年に入交社長が切られて、大川氏が社長になる。この後任人事が二転三転して結局佐藤氏が社長になったりしている。これでドリームキャストが成功するわけないよなあ、と納得。(もちろん、ソフトはソフトでアレだった)

 

セガソニー

個人的に気になっているのが、1990年代前半のソニーセガの関係。ソニー任天堂に「裏切られ」てからプレイステーションを売り出す辺りの話は有名だし、当時ソフトハウス回りで苦労したというエピソードは多い。一方で、当時トップメーカーの一つだったセガプレイステーションプロジェクトとの関係が、全然裏の取れない噂話ぐらいしか聞こえていなかい。

ということで、その辺の話を幾つか拾っておく。

これも後の話だが、セガソニーが協力してコンシューマーをやれないかと模索していた大変な時期があった。

大川さんは、大賀さんと懇意にしていて、大川さんから「ソニーと一緒にやったらどうだ?」みたいな話があった。おそらく大川さんと大賀さんの2人の間で話しあっていて、それが下に下りてきたということだったのだろうと思う。

先方は、大賀さんとソニー・コンピュータエンタテイメントの久夛良木さんと、久夛良木さんの上司で当時専務だった人の3人。こちらは中山さんと私ともう1人の3人。3対3で品川のソニーの接待用施設で食事しながら、「いろいろ頑張ってはいるけれど、任天堂にはどうしても勝てない。だったら、一緒にできないかな」みたいなことを話しあった。(pp.49-50)

 

それで次の日、中山さんに「どうだった?」と意見を聞かれたので、「いや、ちょっと無理じゃないですか」と答えた。中山さんは超ワンマンだけれど、大賀さんがオーナーですとなったら、片や2兆円、3兆円売り上げているソニー、片やセガは数千億円、主導権は当然向こうになる。で、全部任せてもらえるのかって聞いても、はぐらかされて答えはわからない。中山さんの質問に対して、何だかはぐらかすのを聞いて、私も「これはちょっと難しいだろうな」と思っていた。たぶん、大賀さんと中山さんとではうまく噛み合わない。だから、「ちょっとそれは難しいと思いますけどね」といったら、「そうだよな。よし、やめよう」と中山さんも答えた。それで、この話はおしまいになった。(pp.51-52)

という興味深い記述がある。さて、これはいつなのか?

法人としてのSCEは1993年11月の設立だから、SCE久夛良木さんというのは「後のSCEの」というのを省略したか、あるいは勘違いだろう。任天堂の「裏切り」が1991年の6月、1992年3月が松下の3DO発表、大賀さんの「Do It」が1992年の6月、セガがヴァーチャファイターを発表したのが93年の8月。下のトピックを経てサターンはSH2を2個積むのだが、 

実は当初、サターンにはSHは1個だった。
ところがそこにソニーがポリゴンベースで進めているという情報が入った。(p.108)

 これが、日立の資料によれば2個積みが決まったのが93年の9月。ポリゴンベースということを佐藤さんは聞いていない(聞いていれば絶対何か反応しているはず)のだから、「Do It」よりもだいぶ前ということになる。とすると、91年末~92年初頭ぐらいなのかなあ。