k-takahashi's blog

個人雑記用

SFマガジン2009年8月号

S-Fマガジン 2009年 08月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2009年 08月号 [雑誌]

 特集はチャイナ・ミエヴィル。先日「ペルディード・ストリート・ステーション」の翻訳が出たので、それ合わせ。短編が3本とインタビューが1本。短編のうちひとつは2003年ローカス賞受賞作の「鏡」。鏡により自由を奪われていた鏡像世界の住人達が、こちらの世界に攻め込んできたという設定でロンドンを舞台にした短編。ホラー風味が強い作品で、鏡に映るとか映らないとかの描写が面白い。


 インタビュー記事もなかなか面白く、SFとホラーとファンタジーは同じ系譜に連なるもので「ウィアード・フィクション」と呼ぶのだとか主張している。トールキン否定派で、ラブクラフトを重視しているということもよく分かる。
社会主義連盟というところから選挙に立候補した活動家でもあるそうです。ただ執筆においては、ジャンルライターであることに誇りを持っており、安易な政治小説を書く気はないと断言しています。収録短編を読む限りでは、その通り。

 TRPGゲーマーでもあったそうで、もうゲームを再開する気は無いけれど関心は持っているとのこと。小説とTRPGの関係については、こんなことも言っています。ちょっと長いですが引用。

気に入っていることの一つは、奇想の要素と実に不思議なつながりがあることだ。一方で、ゲームは奇想に取り憑かれている。どんなゲームもそうされることが好きなものばかりなんだが、もう一方で、何もかもが量化されて、数値ではっきり示されるようなスーパーヒーロー的で陳腐な模倣に耐えている。クトゥルーの数値なんかもある。”ストレングス200”だ。それがこのジャンルの本質にあって、こういったことがカテゴライズを拒み、境界線を越えていこうとするんだろう。どこか、何かを極めて厳密に数値化しようとするところがあって、そこはとことんばかばかしいことでありながら、あらゆることに整合性を持たせようとするところに、ぼくはぐっとくる。ある意味、ぼくが世界構築でやろうとしていることのひとつなんだ このどんなに絶え間なくこぼれ落ちてはみだしそうになろうとも、整合性をもたせようとするって感覚、分かるだろう。だから、ある制限の範囲内で、『ペルディード〜』のロールプレイングゲームができるよ。キャラクターを選んで、ゲームのルールを考案すればいい。≪ヴィリコニウム≫もののハリスンみたいに、実にみごとな、まったく感動的な論拠から、そんなことを寄せ付けない者もいる。つまり、彼はファンタジイと闘争的な関係にあり、自分もそこに含まれるとはいえ、ファンタジイを読む人々とファンタジイである自分のキャラクター達をひどい目に遭わせている。わかりやすくも読みやすくもするつもりはない。だからファンタジイの効果をそこなってばかりいいる、というんだ。(p.77)

 前半は納得できますが、最後の部分がピンとこない。ググってみたら、ヴィリコニウムはM・ジョン・ハリスンのシリーズもの。一冊だけ訳されていますが、サンリオ文庫……。ミエヴィルの言っていることが妥当かどうかはちと分からず。


 この部分を読んでからあらためて収録短編の設定とか描写とかを見てみると、たしかに3本ともゲームの設定やシナリオの参考になりそうです。


 連載は雪風の最終回。単行本「アンブロークン アロー」は7月24日発売だそうです。