- 作者: スティーブン・ジョンソン,乙部一郎,山形浩生,守岡桜
- 出版社/メーカー: 翔泳社
- 発売日: 2006/10/04
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 36回
- この商品を含むブログ (38件) を見る
結論は最初に書かれている。
「ポピュラー文化は平均としてみれば、過去三十年にわたりますます複雑になり知的な要求度も高まった、ということだ。ほとんどの論者は、ポピュラー文化は奈落の底への競争であり、どれだけバカになれるかを競っているものど思っている。けれど、ぼくはそこに進歩の物語を見ている。大衆文化は年を追うごとにますます高度化しており、ますます認知的な集中力を必要とするようになっている。(p.5)
著者の主張は、「ある種のトレーニングであると捉えれば、ポピュラー文化が進歩し続けている」というものだ。ゲームもテレビもネットもゲームも、社会の中間〜下層に向けて提供されているものを見れば、それは高度化し続けており、それを楽しむための能力もまたそれに鍛えられる形で向上している。それは中間〜下層の人達の知的能力(絶対レベルで比較したIQテストのスコア)を確かに向上させている。著者はこれをスリーパー曲線と呼んでいる。
題材がアメリカのものなので、日本の普通の読者にはわかりにくいと思ったのか、かなり長めの解説が添えられており、そこで日本に適用できるかどうかの議論も簡単になされている。もちろん、ゲームやアメリカTV番組にある程度通じている人であれば、容易に理解はできる。いわゆる「リアリティ番組」については、私はどう楽しむのかよく分かっていなかったのだが、本書を読んで非常に腑に落ちた。スポーツやクイズ番組と同じなわけだ。
そして、私は本書の指摘は概ね妥当であると思う。旧来メディアの役割も正当に論じており、けっして、「もう本はいらない」「TVは捨てられる」的な議論にはなっていない。
個々の事象については、「あれは?」「これは?」という異論は確かにあるが、それは著者も触れている。議論の焦点はそこには無いのだ。あくまでも、長期的な、中・低位層への影響が大きいことが重要なのだ。そして、その長所を理解した上で、「適切な関わり方がどうか」を考えるべきだと。
コンピュータや、ゲームや、TVや、アニメや、ネットや、そのたもろもろのメディアを旧来のメディアの評価基準で評価するのは誤っている。それらが教える内容ではなく、それらが鍛える考え方を評価するべきである。そして、内容を伝えるメディアと考え方を鍛えるメディアのバランスは、別途考えなくてはならないのである。