k-takahashi's blog

個人雑記用

日本語が亡びるとき

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

 言語には、<普遍語>と<現地語>の2つがあった。
<普遍語>とは、美的にも、知的にも、倫理的にも、最高のものを目指す重荷を負う言語であり、本質的に「書き言葉」である。<普遍語>で書かれる文書は、<英知を求める人>によって<読まれるべき言葉>であることを目指して書かれる。
<現地語>とは、まさに「自分達の言葉」のことである。

 さらに<国語>というものがある。<国語>はナショナリズム的な意識の中で育まれた言葉であり、<現地語>に<普遍語>が負っている重荷を負わせようとする言語である。<国語>は近代になって生まれたものであり、現在の「日本語」もまた<国語>である。<現地語>ではなく<国語>であればこそ、世界に通用する文学が生まれえる。

 しかし、紆余曲折を経て、英語が強力な<普遍語>として世界に広がりつつある。この動きがこのまま進めば「日本語」は<国語>としての機能を喪失し、<現地語>になってしまうかもしれない。著者は、そのことを「日本語が亡びる」と表現している。


 文学史的な位置づけとか、世界比較の話とかが妥当なのかどうかは分かりませんが、なるほどねと思いました。正直なところ、私は文学が分からない人間なので、著者の問題意識が共有できているかというとかなり怪しいところではありますが。


 この本を知ったのは、御多分に漏れず、梅田望夫氏のエントリーからでした。その点からすると、梅田さんが反応した理由は納得できます。言語を「プログラム言語」や「サービス基盤」に置き換えてみれば、水村氏の言う<普遍語><現地語>という階層構造や、「翻訳」という作業、「二重言語者」という位置づけは非常に素直にITの世界に映し見ることができるから。「優秀な人材が、ことごとく漢文の<図書館>に吸い込まれてしまう」(p.169)なんかも、まさにこの世界では頻繁に見る現象。
 幸か不幸か、IT世界における文書の大半は<テキストブック>(他の言語に翻訳可能)なものであって、<テキスト>(他の言語に翻訳困難)ではないので、<普遍語>自体がドッグイヤーの速度で変化する世界ではあります。それでも<普遍語>が<現地語>に対して圧倒的に有利であることは多くの業界人は身をもって知っています。そこが、ぴたりとはまったがゆえに、梅田氏のあのやや過剰なまでの反応になったのでしょう。


 個人的には、あと2つ得心した内容があった。
 一つは、<普遍語>としての英語と、<現地語>としての英語の2種類があるというところ。この2つは混ぜてはいけない、理論的に異なる言語なのだというところが納得できた。
 もう一つは、話し言葉と書き言葉は違うというところ。

言文一致体とは、新しい文章語であり、少し難しい言い方になるが、従来の文章語に比べて、言語の修辞学的機能よりも言語の指示機能を優先させた文章語なのである。翻訳という行為は、同じ意味のことを別の言語に置き換える行為であり、それは、言語の指示機能に重点を置かずには成り立たない。つまり、原文にある文章がいったい何を意味するかと言うことに重点を置かずには成り立たない。日本語は、もともと指示機能を優先させた西洋語からの翻訳が可能な文章語として、言文一致体を作り出したのである。(pp.293-293)

これは、戦後のいわゆる「表音主義」に基づく「新仮名遣い」とは違うものであり、あくまでも「書き言葉」であったというところも納得できた。


 ただ、一方で、「おまえは、今年文語文の勉強と英語の勉強とどっちを優先するのか?」と言われると、英語なんですよ。交易語としての英語を私は仕事上必要としているので。でも、少しは文語もやった方がいいのかもしれないけど、私が自分で使い「重荷を負わせる」言語は、普遍語としての英語か、国語としての日本語か、さて、どうするべきなのか、まだ分からない。
 でも、平安文学を読むためではない文語文(言文一致体)の勉強って、今可能なのかな?