k-takahashi's blog

個人雑記用

哲学思考トレーニング

哲学思考トレーニング (ちくま新書)

哲学思考トレーニング (ちくま新書)

 「ダメな議論」*1では、議論と呼ぶに値しない言説をフィルターする方法が紹介されていたが、では、その上で有意義な議論をするためにはどういうノウハウがあるのかは語られていなかった。本書は、どうすれば有意義な議論が出来るかについて、解説したものだということができる。

 というのは、ダメな議論を見分けるための方法は、使い方を誤ると無価値な議論を行うことに堕落するおそれがあるからである。(このことは、「ダメな議論」の飯田先生も注意している。) 一方で、単なる妥協ではダメな議論になってしまう。このバランスをどのように取っていけばよいのか、を哲学者としての知識(「哲学的懐疑主義」など)を使って解説してくれている。

 本書はさまざまな文脈で出てくる懐疑主義というものに対して、どういう条件のときには懐疑主義が適切でどういうときには不適切か、ということについての哲学的・統一的な説明を与えることを目論む。
 「ほどよい懐疑主義」はこの問題に対するわたしなりの答えである。(p.14)

 哲学的懐疑主義は非常に破壊力があり、これを下手に素直に受け止めると、改築所か、日常生活も科学の営みも何一つ残さずに更地にしかねない。本章では、こうした哲学的懐疑主義の両面性を意識して、懐疑主義の破壊力を抑えながらも、そのいいところを生かしていくにはどうしたらいいか、角を矯めて牛を殺してしまわないようにするにはどうしたらいいか、を考えていく。(p.105)


 そのために著者が提案するのが「文脈主義」の考え方であり、文脈主義のふたつのタイプが紹介されている。
一つは「関連する対抗仮説」型。ある問題についての複数の主張(対抗仮説)が複数あるとする。まず、まじめに取り上げる仮説と取り上げない仮説に分ける。そしてまじめに取り上げる仮説(関連する対抗仮説)の中で、もっとも優れていることを示せれば妥当であるという考え方。関連するかの判断は、その対抗仮説を正しいと考える理由があるかどうかで判断する。
もう一つは、「基準の上下」型。要求される確実さのレベルを文脈によって上げ下げし、それに見合った証拠が得られれば妥当とみなす、というもの。
この2つを組み合わせることを提唱している。


 これを著者は「疑わない技術」と呼んでいる。

文脈主義によって得られるのは、一言でいえば、懐疑主義が提供する「疑う技術」を補完する「疑わない技術」である。不毛な懐疑主義を避けるためには「何を疑わないか」という決定が重要である。しかし、疑わないという決定にもそれ相応の理由がいる。
(中略)
こうして疑わない技術を駆使した懐疑主義こそ、序で述べた「ほどよい懐疑主義」である。(pp.147-148)

こうでないと、不毛な議論に陥ってしまうわけだ。


 他にも

「価値的な議論は必ず価値的な前提を持つかたちで整理することができる」というスローガンを採用する。(p163)

は水伝の不毛さを、実証実験云々に関わることなしに示せる、と思った。(水伝が文系的にもダメだということが言える一例になっていると思う。)


 あと、この言葉は使いやすそうだな、と思った言葉が2つあった。1つが「通訳不可能性」。政治党派の対立や宗教的対立などに典型的に起こるもので、相手がなぜ自分の意見に反対するのかが理解できなくなったときに典型的に生じる現象とされる。具体的な兆候としては、「自分が決定的だと思う証拠や議論を提出したのに、相手がまったくその重要さを認識していないように見える」とか、「相手の質問や意見が字面の上では理解できるのに、そもそもなぜそういう質問や意見が出てくるかが判らず頭を捻る」とか、「同じ質問に同じ答えが返されるといいった不毛なやりとりが繰り返される」とかである。なんか、ウェブや実社会を見ていると、該当するものが多くて頭痛がしてくる。 一応著者はこれに対応するための提言もしているが、私は「通訳不可能性は解消不可能」という方が妥当のように感じる。ただ、「通訳不可能性が発生している」という認識は役に立つと思う。


 もう一つは「文脈の分業」。著者が例としてあげているのが温暖化問題で、

  • 大前提:温暖化対策が遅れるのは望ましくない
  • 小前提:懐疑論者の反論は温暖化対策の遅れに繋がる
  • 結論:懐疑論者の反論は望ましくない

という自称環境保護論者がよく使うやりかたがあるが、これが正しいのかという問題への対処法。この例だと、対策を進めるという文脈と、事象を分析するという文脈とに分けて、それが混ざらないようにすることでが有益な議論を行うためのポイントだという話。これも「文脈が混ざっている」という認識を持つことは役に立つと思う。



 著者はクリティカルシンキングのハウツー本としても使えるように書いたと言っているが、クリティカルシンキングのためなら別の教科書*2を読んだ方が良いだろう。その上で、それを使いこなすためのツールとして本書は使えるのではないかと思う。