k-takahashi's blog

個人雑記用

境界知のダイナミズム

境界知のダイナミズム (フォーラム共通知をひらく)

境界知のダイナミズム (フォーラム共通知をひらく)

このような「違和」を感じ、そこに何かを見いだそうとする私たちの「知」のあり方を、境界の知、すなわち<境界知>と呼ぼう。違和感をもつこと、それ自身を人間の一つの能力だと捉えてみるのである。

私たちの心は、もともと違和を感じるようにできている。違和感を消し去ることはできないのである。ならば違和感の正体を見極めることで、私たち人間の持つ新しい<知>が見えてくるのではないか。そして違和感を形作る私たちの<知>は、私たちにどのような考えや気持ちや行動を促し、それはまた私たちの社会にどのような意味を投げかけているのか。

 3者の共同執筆ということになっているが、実際には瀬名が中心となっているようだ。その瀬名は「特に瀬名は本書をあえて小説家のスタンスで書き通している(p.15)」と書いている。今までの瀬名の問題意識をある程度知っている人なら、彼がこういうスタンスを選ぶこと自体は納得できると思うが、本書を読んで私が一番強く感じた「異和」が瀬名のこのスタンスだったのだから、面白いというかなんと言うか。


 ものすごく大ざっぱに言えば、違和感とはヒューリスティックスがうまく動いていないと感じることなので、ヒューリスティックスをどのように獲得するか、どのように使うか、そして、どのように「上手く動いていないかを感じる」のか、というとらえ方をすれば良いのだと思う。


 専門外の私に系統立った論考を行うだけの能力はないので、自分が後に思い出すためのよすがにするため断片的なメモを。

  • 「異和」と「違和」の使い分けが提言されているのだが、そんな微妙な使い分けをするよりも、「違和」自体をニュートラルな単語として扱い、「視点」を持ち込むことで、本書が言う「違和/異和」を分離した方が良いように感じた。
  • ノスタルジーとデジャヴは同じものなのだろうか、違うものなのだろうか?
  • 「第3章:境界知の現場を探る」を読んでいる最中、「哲学思考トレーニン*1」のことがチラチラと頭に浮かび続けた。
  • 瀬名の「〜を越える」という文を見るごとに感じた私の異和の正体は何なんだろう?