- 作者: 梅田望夫,平野啓一郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2006/12/14
- メディア: 新書
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まず、ちょくちょく政治論に引きずり下ろそうとする平野啓一郎氏のひっかけを、華麗にスルーする梅田氏が格好いい。別に政治を語るのが悪いわけではないけれど、ウェブと人との関わり合いによるウェブと人の変化というものを語ろうとするときに、政治の話に堕するのは正直言ってつまらないわけで、さすが梅田先生はこの辺よく分かってらっしゃる。(判ってない代表格が、森健だと思う。)
日本でもある大学の先生に、「学力低下と言うけれども、昔の学生と今の学生を比べたらどうなんですか」と聞いたら、全ての情報を遮断して何が解けるかなら、二十年前の学生の方が上だったけど、道具を自由に駆使し友達と協力してもいいから答えを出すと言うことに関しては、今の学生の方が能力が高いとおっしゃっていました。現実社会で求められる能力の大半は後者ですよね。(p.56)
梅田氏の発言。これは、「ダメなものはタメになる*1」と同じ観点だなあ。
東京は、町自体に色んな世界があるでしょう? 個人の多様性が社会の多様性を促すのか、社会の多様性が個人の多様性を掻き立てるのか、わからないですけど、(p.69)
平野氏の指摘。モヒカン族なんて言い方があるけれど、ネットはむしろ都会になぞらえられるのではないか、というのはなんとなくわかる。そして都会を嫌う振りをして悦に入るエセ文化人がいるように、ネットに対しても、と。
子供の名前を有名人と同じ名前にしておけば、隠れ蓑になって検索エンジンにひっかかんないんじゃないか、とか。(p.101)
梅田氏の発言。一種の逆SEO。この発想はいかにも梅田氏っぽいなあ、と思った。でも、長続きはしないと思う。何を調べたいのかという意志があり、そのための情報があるのなら、グーグルは必ず調べる方法を作ってしまうと思う。
携帯電話が身体の一部であるという感覚が生まれるんじゃないかということですね。そうなると、プレイヤーはもう意識しなくなる……。これからの世代において、携帯電話を身体の一部と思えるか思えないかというのは一番大きな分かれ目かも知れません。(pp.132-133)
梅田氏の発言。本はリーダー(プレイヤー)込みだから廃れないか、それともケータイがあれば読めて、ケータイは身体の一部だからそれをリーダーとは思わないので本は廃れるのか、という議論からの流れ。個人的にはサイボーグ化が進むという予想なんだけど、こと身体に関することだけに、ここは進化が遅くなると思う。ハイエンド機の機種変が激しいのは日本(韓国、台湾、中国の金持ち)の特殊事情という面もある。でも、私の年でも、論文をpdfとかで読むことにそれほど抵抗はないわけで、基本的にはどんどん電子化していってほしい。
我々の議論の中には、必ずアナロジーが出てくるから、一緒に経営をやってく上でこれを全部見てくれないと共通理解が出来ないからと、全部見るように言われたんです。(p.145)
スターウォーズについての梅田氏の説明。
一昨年の6月のアメリカ出張の空き時間にエピソード3を映画館に見に行ったのだが、その話をすると、「普通の観光しろ!」と言う人と「それはうらやましい」と言う人の2種類がいた。たしかに、スターウォーズは大事だよ。
ネット世界の存在を含めた新しい環境下では、平野さんが仰るところの、「リアルの現状を改善する方向へ努力しなさい」というテーゼより、「今の環境が悪いんだったら、他のあう環境を探して、そちらへ移れ」という方が時代にあった哲学のような気がしています。(p.169)
梅田氏の発言。 有名な草薙少佐の台詞「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ口を噤んで孤独に暮らせ。」とか「ネットは広大だわ」とか、を思い出しましたよ。ちょっとニュアンス違いますが、実は同じようなことを言っている。
結局、身体性から切り離されたところで、あらゆる人間が活発に活動するようになったというのが、ウェブ登場による一番の変化なんだと思います。(p.184)
平野氏の発言。
アイボ(1999年)とかアシモ(2000年)とかを経て、ロボットに身体性が必要、という話が一般化していった、同じ時期にウェブは身体性を切り離していったのか。ウェブもロボットも情報技術には違いないのに。
ということで、読んで損は無いのでお薦めです。ウェブ進化論のようなインパクトは無い(あの本は「あちら側/こちら側」という単語を一般化させたということだけでも、歴史に残ると思う)けれど、話のネタを考えるには実によい。梅田氏も、良い相手を選んだもんだ。
*1: