k-takahashi's blog

個人雑記用

脳はなぜ「心」を作ったのか

脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説

脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説

 心というか意識とは何か、という問いに対する前野隆司先生の仮説を紹介する一冊。
著者は、知情意を含め脳の働き方を、多数のエージェント(著者は小びとと言う言葉を使っている)が相互作用しながら活動しているモデルで説明する。そして、「意識」をそれらの小びとに指示を出す存在ではなく、小びとたちの行動の結果を見ているだけの存在だとしている。(有名なリベット博士の実験「行為をしようと思うよりも前に、行動が始まっている、という測定結果」を引用して、この仮説に至っている。) このモデルは、まあ普通の話。さて、そこから。


 まず、タイトルにもある「心」(意識)が作られた理由。著者はそれを「エピソード記憶ができるようにするためだ」としている。

エピソードを記憶するためには、その前に、エピソードを個人的に体験しなければならない。そして、「無意識」の小びとたちの多様な処理を一つにまとめて個人的な体験に変換するために必要充分なものが「意識」なのだ。「意識」は、エピソード記憶をするためにこそ存在しているのだ。「私」は、エピソードを記憶することの必然性から、進化的に生じたのだ。(p.114)

「心」をそう捉えれば、自己意識の話も分かりやすくなる。
 <私>という「私」(意識)の中で自己意識を感じている部分がある。「私」はエピソード記憶を行うために生まれた機能だから、それはあるエピソードについて、「私がやった」という意味記憶を持つ。この意味記憶は小びと達によって管理されている。だから、意味記憶を意識することは別に不思議でもなんでもないことになる。
 では、<私>とは何か。著者は「<私>というクオリアは<私>である」という脳内定義によって作られたクオリアにすぎない、とする。だから、<私>自体は無個性であり、「そう思うというルールがあるから、そう思っている」という、ある種の錯覚だと。


 一応、著者の議論の中ではそれなりに整合性のある話で、まあ、そういう考え方もありかなと思った。意識についてのいくつかの問題に答えることもできるようだ。ただ、これが正しいかどうかは、どうやって確認すればいいのかは分からなかった。


 で、一応著者の話を聞いたとして、その上でちょっと疑問に思ったことが2つ。
 一つは、「意識は小びとなのか、小びとではないのか?」という話。著者の提示するモデルでは、脳内で多数の小びと達が共同作業を行っている。本書内では、意識はそれらの小びととは独立した位置にいるように見えるのだが、意識もまた一人の小びととしてとらえることができるのか、それとも意識は小びとではないのか、そこが気になった。
 もう一つは、上述した「心」の生まれた理由。著者は、エピソード記憶のために生じたとしている。小びとたちの分散処理を直接記憶しようとしても処理しきれないという問題に対応するためだと。 だとしたら、分散処理結果を直接記憶・検索・処理できる存在にとっては「心」は不要ということになりはしないか。「機能:G」という、膨大な記録を瞬時に的確に検索できる能力を持った知性体がいたとすれば、それには「心」は不要ということになる。著者は、ロボットに心を持たせられるという話を本書の後半で行っているが、ロボットが「機能:G」を持つのであれば、別に心はいらないような気がする。(人間用IFとして「心」をエミュレートするというだけの話なのかな、どうなんだろう?)


 入門書とは言いませんが、専門的知識を前提にした本ではないので、「心」「意識」に感心のある人なら読み切れると思います。興味のあるかはどうぞ。(「攻殻」のゴーストに関わる話でもできれば、格好良いのだろうけれど、ちょっと私には無理そう。)