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辺境生物探訪記 〜 SF作家とインディ・ジョーンズが奇妙な生物について語り合う

辺境生物探訪記 生命の本質を求めて (光文社新書)

辺境生物探訪記 生命の本質を求めて (光文社新書)

 極地、深海、火山、砂漠、地底、宇宙、などのように我々の感覚からすると異常としか思えない過酷な環境下でも生物が存在していることは多い。そのような生物「極限環境生物」を研究する長沼毅氏と、SF作家の藤崎慎吾氏による対談を一冊にまとめたもの。
 当初構想では、世界の辺境を渡り歩きながら対談するつもりだったらしいが、時間的・経済的理由から実現困難ということで、国内の「それらしい」ところを巡りながらの対談となったらしい。
 で、プロローグは、「酒まつり」で日本酒を飲みながら微生物について語っていたり。


 トピック集としても面白い一冊だし、そういう極限環境においてなお「生命」が存在するのであれば、それは「生命とは何か」を考えるヒントにもなる。本書では生命を

生命とは、物理学や化学では起こらないことが起こること (p.371)

という言い方で表現している。


 例によって気に入ったエピソードを幾つか抜き書き。


 生物の多様性とは、という話題から。

長沼:生物の多様性を考えるとき、熱帯雨林だとか珊瑚礁だとかは大差ないに等しい。
藤崎:確かに樹木も珊瑚も、どちらも真核生物の中に含まれます。
長沼:そう、大差ない。だから本当に多様性を知りたかったら、もっと小さいものを調べろと思う。
藤崎:アーキアとかバクテリアの中の多様性もまた大きいのですか。
長沼:その通り。圧倒的に少ない種の数しか知られていないのに、多様性はものすごい。(pp.20-21)

生物は、バクテリアアーキアと真核生物に大きく分かれる、という話から。


チューブワーム。チューブワームの体内にはバクテリアがいるのだが、そのバクテリア。実はどこから来たか分からないのだそうだ。

長沼:ずっと謎だったのは、チューブワームがどうやって体内に共生するバクテリアをげっとするのかってこと。親から子に伝わるとしても、卵にも生死にもバクテリアはいない。その一方で、さっきチューブワームには口がないと行ったけれど、実は卵から孵った幼生の最初の3日ぐらいは口が存在するの。ただ、成長に従って退化する。だから退化する前に口からバクテリアを摂り込むしかない。その中で硫黄酸化バクテリアが選ばれていくんだけれど、そのプロセスがまだよくわかっていない。(p.121)

そして、そのバクテリアの種類が実は遺伝している可能性もあると言い、こんな話題に続く。

藤崎:そうすると細胞内共生の始まりみたいな意義というのは、あるんですか。例えば植物はいろいろな細菌を細胞内に採り込んで、藍藻葉緑体になったし、別の菌はミトコンドリアになりましたよね。そのうちに硫黄酸化バクテリアも細胞の中のオルガネラ(細胞小器官)になるのでしょうか(p.124)

まさに進化の過程を見ているのかもしれないという見方が面白い。


 ウランと微生物については、ウラン鉱山がどうやってできるかは従来謎だったが、どうやら微生物が関わっているらしい。ウランが解けやすい環境、沈殿しやすい環境を微生物が作り出すことでウランが溜まっていくというモデル。
 これを放射性廃棄物管理問題に組み合わせると、万一廃棄物からウランが漏れ出しても、微生物を上手く使えば、それを集めて固めてしまえるんだとか。


 こういう地底での微生物の働きは、実は反応が非常にスロー。長沼先生はこれを「スローバイオロジー」と表現しているが、

長沼:例えば地底の微生物は、1回分裂するのに100年かかるとか、1000年かかるという計算もあるくらいだからね。
藤崎:計算はできても、観察はできませんね。
長沼:100年に1回分裂するものに、どうやって対応したら良いんだろう。
藤崎:息子の代、孫の代に申し送りをしておくとか。「この中に1匹入っているから100年後に数えなさい」って。(p.266)

そこから、長沼先生は「n=1」のサイエンスという言い方をする。

長沼:サイエンスの世界では再現性というか、繰り返し実験ができることが大事だけれど、スローな世界、スローなバイオロジーでは、繰り返し実験をやろうとしても非常に大変だよね。それから地下の生き物について調べると言っても、研究者が一生の間に扱える穴の数には限りがあるでしょ。そうすると、サンプル数がとても限られちゃう。統計学的にやるには100は欲しいところだけれど、実際には三つとか四つで話をしなくてはいけない。nの3乗どころか、nの3倍がせいぜい。極端な話、nイコール1のサイエンス。地球の歴史、生命進化の歴史は、全部これ(p.267)

この辺の言葉「スローバイオロージー」とか「nイコール1のサイエンス」とかの言葉は面白い。


 第6幕はお待ちかね、宇宙。本書では、高エネ研で対談していることからもわかるように放射線の影響を色々と語っている。非常に過酷な環境なのだが、一方、水とDNAがなければ大丈夫という実験もあるとのこと。クマムシの樽も乾燥状態でしたね。


 エピローグでは、ある意味「暴論」的な話も出ている。

佐々木:でも地質学の立場で考えると、むしろ環境の破壊者という印象があるんですよね。
長沼:うん、守らない、守らない。植物が環境を守るなんて嘘っぽい。
佐々木:そういう印象が強いんです。
藤崎:植物だって自分の都合の良いように生きている生き物の一つに違いないわけで、別に地球の環境を考えて生きてるわけじゃないですもんね。
長沼:そもそも地表の表層を酸化的に変えたのは植物だからね。
佐々木:そうそう
長沼:最初の大罪。
佐々木:大罪ですよね。
藤崎:最初の大気汚染は、植物ですからね。
佐々木:非常に変な言い方をすると、生物が存在することによって、いろんなわけのわからないものが出てくるわけで、毒みたいなものもたくさん出てくるわけですよね。酸素もある意味では毒ですから、酸素を増やす環境にするというのは毒を増やしていることでもあります。そう考えると生物が生まれたのは、世の中をぐちゃぐちゃにして破壊するためといえなくもない。
(pp.381-382)

藤崎:話をまとめると……。科学者は、破壊の先頭に立つ人達だ!
長沼:おいおい
藤崎:そういう見方もできますよね。
長沼:別に科学者はホモ・サピエンスのために働いてないから大丈夫だよ
藤崎:そうなんだ
長沼:つまり、ホモ・サピエンスの暴走を止めようとしているんだよ。
(p.396)

こういうある種SF的(本書はSFではないけれど)な発想は読んでいて楽しい。