k-takahashi's blog

個人雑記用

SFマガジン 2011年06月号

S-Fマガジン 2011年 06月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2011年 06月号 [雑誌]

バチガルピは甘美な終末を描かない。華々しいシンギュラリティも描かない。バチガルピの作品で描かれるのは緩慢に醜く崩壊しつつある世界のありようと、その世界で生き延びるために境界線を踏み越えるかどうかギリギリの選択を迫られる、普通の人々の姿なのである。(p.69)


特集はバチガルピ。短編が2本とインタビュー記事が掲載されている。技術は進んだが環境破壊が進展している社会を背景にした作品が何度かSFマガジンに載っていたのを読んだ記憶がある。(このちょっとインパクトのある名前も)。フルーテッド・ガールズも印象深かった。


短編は、『ギャンブラー』と『砂と灰の日々』。


『ギャンブラー』は、ラオス独裁政権を逃れてアメリカでニュース記者をやっている男が主人公。ところが、彼の書く記事は真面目すぎてPVが稼げず、クビが危なくなる。彼はビザの関係で失業したら強制送還になりかねないという微妙な立場。
そんな彼が、ラオス出身の芸能人のインタビューのチャンスを得る。彼女は祖国の政治問題を承知したうえであえて、彼とのデートをスキャンダル記事として提供しようとするのだが、というお話し。
タイトルでネタ割れしていますが、主人公はこのチャンスにあるギャンブルをする。本当に重要かどうか、事実なのかどうかではなく、己の欲望に沿ったtweetを続ける「有名人」を散々目にした直後だけに、環境問題が深刻化した社会での生き方というよりは、ウェブ社会での生き方が気になってしまった一作。


『砂と灰の人々』は、傭兵稼業を営む三人組が、生きた犬を拾ってくる話。
環境悪化にテクノロジーで対抗した人類は、強靱な体と強力な回復力を手に入れていたが、その世界はもはや生身の体では生きることすら難しい世界。そこになぜか生きた犬がいた。
この「あまりにもひ弱」な生き物と、超強化されてしまったヒトとの関わり。「イノセンス」とか「ブレードランナー」とか連想しながら読んでました。



長山靖生氏の「記憶の中の80年前後SFファンダム史」は、ぱふ騒動、コミケ分裂騒動、大日本騒動、あたりの話。

悪ふざけをしたら、後はちゃんと謝らないと(p.97)

というのは、まあそうだろうなと思う。(長山先生が「大日本」の替え歌の本歌を知らないというのはちょっと意外)
組織票で星雲賞を取りに行く話は、世紀境あたりにもあったような。



SF作家論シリーズは、海老原豊氏によるディック論。
ディック作品を論じているつもりが、いつの間にかディックその人への言及に入れ替わってしまいがちな理由を

現実が不確かなものへと変容するディックの作品世界を、幻想ではなく現実として受け止めること。そのための最短距離は読者になることではなく、作者になることだ。それが無理であれば、せめて作者へと近づくこと。これがディック体験の特権化のカラクリではないのか。(p.221)

としているのが面白かった。