- 作者: 瀬名秀明,藤子・F・不二雄
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2011/02/25
- メディア: 単行本
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【注:以下、ネタバレ配慮無し】
ドラえもんがなんなのか、ドラえもんの道具がどんなものなのかを、いちいち細かく描写する(この辺は省略可能だと思うのだが、丁寧に説明している)のも面白かったが、それ以外にも、説明の追加、設定や解釈の追加となるような記述もある。例えば、
慣性質量と重力質量を持つ知性体は、そうした鏡面に向かい合ったとき、奥行きではなく左右が逆になった世界と錯覚して周囲を認識する普遍的特徴がある。地表に立つ知性体は天体の重力を無意識のうちに感じ、天体の中心に至るz軸ベクトルをつねに身体性として確保しており、一方その主体は移動知と感覚知を持つがゆえに、おのれの進行方向を、あるいは視線などで注意を払う方向を、やはり無意識のうちにx軸として捉える傾向があるからだ。よって、鏡面世界に入り込んだ知性主体に残された余剰のベクトルはy軸であり、彼らは左右があべこべになったものとして世界を認識する。これは知性主体がどのように設計、制御されていようと、共通して起ち現れる主観である。
リルルはそうした理屈を充分に理解しており、鏡面世界の物理法則が祖国の計画になんの支障も来さないばかりか、幸運と言えるほど祖国の目的にかなっていることを確信していた。(p.90)
ロボットの知性の表現となっているのだけれど、これがドラえもんなのか、という書き方である。
また、
ジュドが放り込まれたポケットの内部は、いわば時間の停滞した世界であった。このような時空間に浮かぶ未来の道具たちは、整然とタグづけされ、手を差し入れる者の判断に応じてすばやく検索・抽出がなされ、取り出される仕組みになっていた。四次元空間に道具を配置することで、省スペース化と物質の劣化対策がなされている。ただしユーザーの状況によってはタグとの記号接地問題がうまく解決されず、無関係な道具が次々に選択されてしまうというプログラム上の欠陥も抱えているようだった。(p.244)
ドラえもんがポケットから道具を取り出し損なうのは、記号接地問題らしい。
また、結構ハードな描写もある。
いろいろなことはあっても、五人がばらばらになるときがやってくるなど、誰も思いはしなかった。(p.66)
と思わせぶりなことを書いておいて、あとでこんな議論をする。
ほかのロボットたちは壊しておいて、なぜ女の子のロボットならだめなんだ。これは鉄人たちの罠かもしれない。かわいい子の姿にしておけば、ぼくら地球人が優しくして、隙を見せると計算しているんだ。だいたい、どうやってこいつらは人間そっくりのロボットを作ることができたと思う? これまで何人も地球人を攫って、解剖して、研究したのかもしれない。(pp.175-176)
破損した(怪我をした)リルルをどうするかという議論。昆虫型ロボットを平気で壊し、巨大ロボットの頭脳を改造しておいて、なぜ女の子型ロボットだけ特別扱いするのという話。ここで、小学生には扱いきれない問題に落ち込んでしまう。
一方、この外見の問題はリルルにも影響する。人間狩りに異議を唱えたリルルに対して、総司令官はこう答える。
おまえは自分とよく似た地球人に共感を抱いてしまったのだろう。もっとも愚劣な過ちだ、自分と似ているから同情するとは
(中略)
おまえは実に醜い姿だ。神がもっとも忌避し、嫌悪した姿をまとうがゆえに、おまえはついに地球人と共感し、心まで醜くなってしまったのだろう(p.254)
この外見問題は、『神』の星を訪問した際の描写につながっている。そこは昆虫が多く住む星だったという設定が付け加えられていた。(p.296)
さて、メカトピアの地球侵攻の原因である。漫画版では、メカトピアの元となるロボットを作った科学者は、「競争本能が悪かった」とだけ言っているが、ここにも記述が追加されている。
わしの故郷は、ユートピアを目指し、そして腐敗した。最初のうちはよかった。高邁な理想が掲げられ、誰もが平等となり、富は公平に分配される星だった。しかしいつからか人は向上心を失い、働かなくなった。皮肉なものだが、理想は時に人間をだめにするのだ(p.307)
だから、彼は堕落した人間にユートピアが作れないことを悟り、堕落しないよう競争本能を付け加えたロボットを作り、ユートピアの夢を託したわけだ。
さて、小説版での大きな追加パートが現実世界側の描写である。そもそもドラえもんという設定自体が過去改編ものであり、さらに『鉄人兵団』が歴史改編を扱っている。そこに、瀬名秀明はこんな描写を追加する。
時間の流れというものは複雑だ。のび太達が一週間家を空けたとする。その一週間という時間は、パパやママにも同じように積み重なっている。その間。ふたりは必死でのび太を捜索しただろう。毎晩泣きはらしただろう。その辛い日々は、のび太たちがタイムマシンで元に戻ることで、なかったことにされる。別の平行世界が生まれて、続いてゆくのだ。しかし彼らが泣いて過ごした時間と、その辛い体験は、本当に消えてなくなるのか。失われたループは、もしかしたらどこかに残像のような形で残るのではないか。辛い記憶はどこかに積み重なり、現実のパパやママにも僅かな影響を与えるのではないか。二二世紀の科学でさえ充分に解明されていない、宇宙の謎だ。(pp.210-211)
「リーディング・シュタイナーかい?」と思ったのだが、それはともかく、冒険後に家を空けていたのび太たちがタイムマシンでもとに戻り、自分たちが不在中だったという事件を「無かったこと」にするのは、大長編ドラえもんでの常套手段の一つ。日常性を壊さないというドラえもんの方法論の一つである。だが、こともあろうに、そこにこんな爆弾を放り込んでしまっている。
小説版では、数日間家を空けていた事実はキャンセルされない。そして、のび太たちの活動の現実世界への影響も残るようになっている。
そこをまとめるために星野スミレを持ち出すとは思わなかったけど。
こんな感じで、大きな変更を加えるのではなく、省略されていた部分を丁寧に書き足していくことで、視点を広げるというリメイクになっている。さすがに、ドラの小説化でこの手法が多用できるとは思えないけれど、『鉄人兵団』を瀬名秀明が書くなら、納得。
おまけ
小説中では、ドラえもんは「のび太」と呼びかける。原作通りで正しいのだけれど、私の世代だと、どうしても大山のぶ代の声で「のび太君」なんですよね。ここが一番の違和感だったりする。
一方、星野スミレが新作映画を一般客に公開するオールナイトイベントが恒例になっているというところ(p.293)は、妙にツボでした。ドラえもんだなあ。
小学館によると、本作は「世界初の公式小説化ドラえもん」だそうだ。ただ、瀬名秀明の『八月の博物館』*1は、公式ではないけれどドラえもん小説だと思う。
*1: