k-takahashi's blog

個人雑記用

自由とは何か

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

 おおやにきで知られる大屋雄裕先生が一般向けに書いた本。現在の法・政治・社会システムの前提になっている近代的な自我のあり方と価値を問い直す一冊。
 なのだが、ここはあえて、TRPGの文脈から本書の内容を語ってみることにする。サブカルへの理解もあるであろう大屋先生なら笑って許してくれるだろう。


 第1章「規則と自由」。
 第1章では何が自由を脅かすかという話。自由を脅かすのは国家だとする説は根強い。だから、国家による制限は、「他者の自由を侵害しない行為を規制してはならない」ということになる。しかし、これは逆の言い方をすれば、「他者の自由を侵害する行為が排除されることなしに、我々が自由でいられない」ことを意味する。つまり、我々一人一人が他の個人に対する潜在的な危険であることになる。
 TRPG的に読み替えれば、「悪性マンチキンは駄目」ということになり、他のプレイヤーの迷惑になる行為をマスターが規制するのは当然であるということになる。

 もう一つ、「消極的自由」と「積極的自由」の解説もされている。バーリンによれば、消極的自由とは「強制の欠如」、積極的自由は「決定する根拠」のこととなる。この2つが分離できるのか、どちらがより重要かなどでいくつかの立場があることが本書では解説される。一方TRPGの文脈で言えば、これは簡単で、TRPGでは圧倒的に「消極的自由」より「積極的自由」が重視される。TPRGはリバタリアニズムとは相性が悪いのかもしれない。


 第2章「監視と自由」。
 まず監視について論じられている。通常のTRPGにおいて、誰にも見られていない行為というのは存在しない(想定することはできるが、普通そういうプレイはしない)。ここでは、常に他者の視線を意識することで、プレイの自由さはある程度制限されていると指摘するにとどめる。
 つぎにレッシグの言う「アーキテクチャの支配」。環境を操作することで、何かをする可能性をあらかじめ封じてしまうことである。ベンチの2席おきに肘掛けを設けることで、3座席を支配して眠ることを否定しているのがその例。アーキテクチャによる支配は、「規制されている」という意識すら浮かばないという特徴がある。そして、これは基本的に善意に基づいている。罰則を用意するのではなく、そもそも罰則が適用されるような事態が起こらないようにしてしまうのである。
 そして、アメリカのメーガン法を例に「事前規制、事後規制」の解説を行う。リスクを消去し問題行動がそもそも起こらないようにするか、正当化の可能性を確保しつつ問題行動への速やかな対処を行えるようにするか、の違いである。一方で、前者には適切性と正当性をどう保つかという問題や服従しているという意識が希薄化する問題があり、後者には問題行動の発生そのものを防ぐことはできないという課題がある。
 これをTRPG的に読めば、まさにセッションコントロールシステムの話題である。システムにガチガチにセッションコントロールを組み込むのは、確かに「事故」を防ぐ効果がある。一方でそのアーキテクチャの適切性と正当性は常に問われなくてはならない。そして、服従意識の希薄化という問題は、一部のゲームがオールドゲーマーから嫌われている大きな要因の一つだろう。


 第3章「責任と自由」。
 まず、刑罰を科されるということが、自立的に意思決定する主体であることを認められることだということを解説する。そして、「発生してしまった帰結を自分の選択の結果として引き受けるとき行為者は主体として立ち現れる」とする。
 しかし、そういった主体的な個人というものは、実は「個々人の快楽ないし欲求充足として理解される効用を最大化する」という観点からは、手段の一つであって絶対的なものではない。個人の自由を抜きにした方が効率よく皆で気持ちよくなれるとしたら、自由というフィクションは不要ではないか、という説を示す。弱い個人の行動をコントロールし、想定外の大被害が世界に対して生じないようにアーキテクチャ的な規制を加えていくことが、むしろその個人を護るためにこそ必要になるのではないか、と。
 最後に著者は、上記の論を否定するのではなく、自由な個人というフィクションにも、まだ尊重すべき価値があると結ぶ。

 で、そもそもこの第3章を読んで、本書をTRPGの文脈で語れるだろうと思ったわけです。弱い個人(不慣れなプレイヤー)に対しては、適切なアーキテクチャ的規制があった方が幸せであり、一方でより高い自由、よりよいアーキテクチャを考えるためには自由なプレイというフィクションを尊重し、大被害を受けるリスクを負った方が良さそうということになる。


 幾つか重要な部分をすっ飛ばしていたりしますし、牽強付会という批判は甘んじて受けますが、こういう読み方もできるな、と思ったので紹介。
 ネットやウェブとどう付き合うか、という観点から読むこともできる(というか、著者の本来の意図はむしろそっちだと思う)ので、真面目に読みたい方もどうぞ。私は法哲学を学んだことはありませんが、一通り最後まで読み切れたので、無茶苦茶専門的ということはないと思います。