k-takahashi's blog

個人雑記用

昭和16年の敗戦 〜日米開戦前に行われたゲーミングシミュレーションの結果

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)

16年夏、彼らが到達した彼らの内閣の結論は次のようなものだったからである。
12月中旬、奇襲作戦を敢行し、成功しても初戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量に於いて劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、終局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから日米開戦はなんとしてでも避けねばならない。(p.83)

この予測はどのように立てられ、そして現実世界での意志決定はどのように行われたのかを追ったドキュメント。


「面接」という言葉がはじめて使われたのがこの総力戦研究所の研究生口頭試問の時だった(p.22)、不満たらたらだった体操の時間が実は効果的だった(p.68)、武力戦だけの図上演習と区別するために「机上演習」という言葉を考え出した(p.131)、などというエピソードも紹介しつつ、検討のディテールを紹介している。今で言う「ゲーミング・シミュレーション」の手法で、専門知識を持った若手に「模擬内閣」を作らせている。その結果が上記のものである。
その報告会には東条英機(当時、陸軍大臣)も出席していた。東条が天皇から戦争回避を託されて組閣した(『九月六日の御前会議決定にとらわれるところなく、内外の情勢をさらに広く深く検討して慎重なる考究を加うるを要すとの思召であります』(p.88))のはこの後の10月のことになる。


ゲーミングの方法論としてみると、模擬内閣側のメンバーの意見よりも、状況設定を行った統帥側の動きの根拠の方が気になった。統監部は、所与の設定としてインドネシア占領を命じており、当初から模擬内閣のメンバーは「それは事実上日米開戦と同じだ」と反対している(p.125)。
実際の近衛内閣・東条内閣も、軍部側の作戦上の都合を押しつけられて選択肢を奪われたといういきさつもあり、リアルな設定ではあった。
その後の設定展開も、厳しいものが多い(41年7月の段階で独ソ戦の膠着を想定している)。この設定は結果的に妥当な予測ではあったのだが、本書ではこの設定を用いることに至った議論過程までは追われていない。なので、統監部の出したこの想定自体がある種の極論とみなされ、それゆえにこの机上演習の結果が軽視されたのではないか、という疑問も感じる。
もっとも、これは「こういうケースもありうる」という想定で考えておかなくてはならないこと。この手の「悪い状況を想定し、その対応策を考える」というのは楽なことではないが、日本の組織では特に苦手としているように思っている。ミッドウェイ作戦の演習で、不運により日本艦隊が壊滅的損害を受けたことがあった。そのときも「不運だったから」で片付けてしまい、「そういう不運があったらどうするか?」を真剣に考えなかったという失敗があったのを連想する。


一方で、猪瀬氏が大きく問題視しているのが数字の扱いについて。
実際の日本政府の意志決定において、重要なポイントの一つとなったのが、石油需給予測。その元とすべき備蓄量データが陸海軍の秘密主義のため表に出てこず、充分な検証もされないままに意志決定の根拠にされてしまった様子が描かれている。
このときに、「開戦しなければ破綻するが、開戦すればもつかもしれない」という予測が出されたのだが、『人造石油の生産量がドイツと同じくらいだったなら、日米開戦が避けられたかもしれない』(p.164)というのも含めて、非常に微妙な数字が出されたことが示されている。そして、これの根拠検討が不十分だったことを記している。

これならなんとか戦争をやれそうだ、ということをみなが納得し合うために数字を並べたようなものだった。赤字になって、これではとても無理という表をつくる雰囲気ではなかった。(p.181)

猪瀬は、「数字にすがった」(p.192)という表現を使っている。

本書はもともと1983年に書かれたものだが、この問題意識が、猪瀬氏が道路公団問題に取り組んだときのやりかた(徹底的に数字と根拠を追い求めたやりかた)につながっているのだろう。


この意志決定の検証が行われなかった理由の一つは東京裁判だったようだ。「裁判で真実を」などと言う人がいるが、裁判が事実の検討を曇らせる事例としても、本書は読めると思う。