火星ダッシュ村、こと「火星の人」で有名なアンディ・ウィアーの長篇小説第3弾。
リアル感あふれる描写と、やたら過酷な状況と、ひたすら前向きで軽い(軽く見える)主人公という組み合わせは今回も同じ。地球を遠く離れた場所で人類の存続がかかったミッションにたった一人で取り組むという状況。
過酷な宇宙で多くの人々を救うためにという設定は「冷たい方程式」以来の定番だし、厳しい状況下でも前向きというのは「たった一つの冴えたやり方」という名作がある。
ただし、上記2作と違うのは、登場人物もそうだが、読者側も「困難な状況だが、なんとかなるに違いない」と信じているところ。そしてその期待は裏切られない。アンディ・ウィアーだから。
ジョージ・R・R・マーティンは本書に対して、「ここには伝統的なSFのファン(わたしのような)が愛するあらゆるものがある」という賛辞を送った
(解説、より)
というのは、そういうところだろう。
ヘイルメアリーは「イチかバチか」ではない
ヘイルメアリーパスはアメフトの作戦の一つで、普通にプレイしていたら負けが確定的な状況において、一発逆転を狙った長いパスを投げるもの。成功率は3%とも5%とも言われており、狙ってやる作戦ではない。
一般にアメフトのパスというのは、パスを投げる選手が「ここにこのタイミングでパスを投げれば、捕球側の選手がキャッチできる」と判断して投げる。もちろん、人間のやることなので情報を見落としたり、タイミングがずれたり、正確に投げられなかったり、受け取る側の選手の移動がずれたりするので、思ったとおりにいくわけではない。(当然だが、ゲームプランとしては成功率を勘案して全体を考える。)それでも「取れるはず」と思って投げるものである。
一方、ヘイルメアリーパスは「取れるかどうかはわからない」「お願いだからうまく取ってくれ」という状態で投げる。(色々策を弄して、捕球側の選手がパスを受けられるようにする場合は、ヘイルメアリーとは言わない)
だからといって、適当にイチかバチかをしているだけではない。受ける選手が目的地まで走る時間を稼ぎ、そこで捕球してくれれば勝てるという場所にきちんとパスを投げる必要がある。それをやりきることが投げる側の選手には求められる。分の悪い状況であることを百も承知で、自分がやれることを全部やりきったうえで、「あとは頼んだ」というのがヘイルメアリーパス。「イチかバチか」というよりも「人事を尽くして天命を待つ」の方がニュアンスが近い。英語では"Do the best and leave the rest to God"で、後半が「神様(マリア様)、お願い」ということ。
日本の宇宙ファン、SFファンだと、初代はやぶさの川口マネージャーの講演が分かりやすい。
神頼みは「自分たちは本当にやるべきことをやり尽くしたのか?」という自己点検になったと思います。本当にやれることは全てやり尽くしたうえで願を懸け、それで運を拾えたとすれば、それが御利益なんだと思います。
と書けば、本書を読んだ人なら分かると思うが、「プロジェクト・ヘイル・メアリー」では、ストラットを筆頭にした地球側の人々がパスを投げる側の人間で、主人公のライランド・グレースがパスを受ける側の人間ということになる。地球側の無茶ぶりは書かれている通りで、環境も法律もモラルも人権も知ったことかとゴリ押しを重ねて、必要な時間をひねり出し必要な装備を整え可能性を作り出す。そうして作り出された可能性の上に、目的地に一人たどり着いた主人公が解決策を求めて孤軍奮闘する。
そしてこの「できることを全力でやる」「あとは相手を信じる」というパターンは、本書で何度も繰り返されている。冒頭の子どもたちの教育のシーンから、クライマックス、エピローグまで。なので、本書のタイトルは「ヘイルメアリー」であっている。そしてそれは単なる「イチかバチか」ではない。