ggincさんの力作「仮象論のパラドックス――〈ゲームシステム〉と〈テーブルの合意〉を区別する」だが、何しろ長いのできちんと読めなかったのだが、ようやく時間がとれたのでもう一度読み直してみた。
「〈ゲームシステム〉と〈テーブルの合意〉を区別すべし」というところは同意なのだけれど、論説全体はどうにも腑に落ちず。多分、根本の問題意識を私が理解できていない性だろうが、読んでいてあちこちひっかかりを感じた。
「分からないなら黙っとれ」という意見もあるでしょうが、読んで面白かったのは事実なので、それを表明しておくのもいいかな、ということで。
ひっかかりの一例は、
このことを「ナンセンス」といいます(これは「くだらない」という意味ではなく、「真偽を問うことができない」という意味です)。
仮象論のパラドックス――〈ゲームシステム〉と〈テーブルの合意〉を区別する - God & Golem, Inc.
にもかかわらず、TRPGの参加者は、「現実に指示対象のない名を使って、互いに“ある種独特のリアリティ”を共有し、対話を維持する」という、とても不思議な遊びをしています。
これがどうして成立できてしまうのか? 私たちは、こうした営みをどういう風に把握して遊べてしまえているのか?
これについては、私は「言語の重要な機能の一つは嘘(非現実)を扱うこと。従って、言語を用いてコミュニケーションをできる以上、非現実を共有する能力はあって当然」と解しています。これが不思議な能力であることはその通りなのですが、「TRPGの問題です」と言ってしまうと逆に狭くしすぎではないか、と感じてしまうのです。そして、私の解釈の場合、テーブルの外ともコミュニケート可能であるならば、(テーブル内でのコミュニケーションと、テーブル外とのコミュニケーションとで、使う道具が同じである以上)非現実の共有は可能となるため、ggincさんの論説とは少々ずれてきます。
もっとも、後半には、
【高橋(志)】:「共同デザイン的な楽しみをフォーマット化している」が正しいのですね。「想像したものを、表現としてゲーム上で定義する手続きが非常にタイトに決まってる。テキトーでない」と。
仮象論のパラドックス――〈ゲームシステム〉と〈テーブルの合意〉を区別する - God & Golem, Inc.
とあり、結局共有可能となっているようにも読めるので、実はずれていないのかもしれません。一方、タイトな(自然言語の表現力に枠をはめる形での)フォーマット化が共有のための必要条件か否かという問題に関わるのでやはりずれているのかもしれない。正直なところ、判断しきれません。
ただ、ひっかかりを感じているのは事実なので、その表明をとりあえず。
逆に、妙に腑に落ちた部分もあって、
バランスを論じるのは、全ての形式的要素についての構成を完了した後、現実に対して意味を問う段階のみに限定しなければならないのですが、ゲームデザインにおいて“バランス”という用語を使ってる場合、普通、そういう考察が足りてない
仮象論のパラドックス――〈ゲームシステム〉と〈テーブルの合意〉を区別する - God & Golem, Inc.
のところなんかは、「たしかにバランスって、GMやプレイヤー(現実)が気にすることであって、キャラクター(システム内存在)が気にすることではないものな。現実側での評価の話なら、好みの問題になるのも当然だ。」と。
分からない人間は分からないなりに何か書いておけば、もしかすると役に立つかもしれない。役に立たないなら捨てられるだけだし。というのがWeb2.0の作法なので、とりあえずそれに従って。(でも、正直なところ、あの内容なら論文調で書いてくれた方が判りやすいと思った。)