クロスロード・ネクスト―続:ゲームで学ぶリスク・コミュニケーション
- 作者: 吉川肇子,杉浦淳吉,矢守克也
- 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
- 発売日: 2009/06
- メディア: 単行本
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一方、筆者らは、単にゲームを出すだけではなく、その後も精力的に普及活動を続け(http://maechan.net/crossroad/news.html など)そこから様々なフィードバックや知見を得るに至った。それをまとめたのが本書である。
もともとは、リスク・コミュニケーションを図るための教材なので、その方面から考察するのが正しいのだが、それは専門の方に任せるとして、以下では、ゲーム論的な観点からいくつか感想を。
クロスロードというシステム
クロスロードのカードは、こんな記述がされている
整理番号:1002
あなたは:避難所担当職員
基本設定:災害当日の深夜、市庁舎前に救援物資を満載したトラックが続々到着。上司は総員総出で荷下ろしを指示。しかし、目下、避難所との電話連絡でてんてこまい。指示に従い荷下ろしをする?
YES:荷下ろしする
NO:しない
特徴は、記述的でであること、最適解がないことであり、さらには、記述が短いことである。
そのため、記述が曖昧だという批判がありうるが、著者らは別の立場をとる。記述が短いがゆえに逆に様々な意見が出てくる。同じカードであっても参加する人(追加記述される内容)によって別の記述になりうるのだ、と。
書かれていない部分は参加者が作り出す(ナラティブ)のであり、そのような機会を提供することが大事だととらえるのである。
SLGやTRPGにおけるシナリオとプレイの関係を思い起こしながら興味深く読みました。
一方で、防災シミュレーションの立場からは、もっとも恐ろしいリスクの一つである「もうほかにリスクはないと誤解してしまうリスク」を防ぎ、「予想し損ねたリスク」を発見するという点で、ここは重要ととらえるようです。
ゲームに徹する
クロスロードはコミュニケーションツールとして考えられたので、交流を促す仕組みがいくつか組み込まれている。その一つが「賛否をとったとき一人だけだった場合に得点となる」というルールである。少数意見を表明するのは一般に困難とされるが、クロスロードでは「得点狙い」ということでそれが促される。
ゲームを楽しみ、勝負に徹する姿勢こそが望ましいのである。
教育訓練用にゲームを行うとき、それがまじめな活動であることを強調するために、むしろゲームの専門家の方が、「ゲーム感覚で楽しく遊ぶ」という表現に抵抗しがちである。すなわち「われわれは常にまじめにゲームをやっている」ということや、あるいはデジタルゲームをあえて「シリアスゲーム」と表現することなどはその現れといえるかもしれない。(p.15)
システム情報と事実情報
クロスロードでは、選択肢は「イエス」「ノー」の二択である。二択を迫られるということが現場で起きる最大の問題であることがここに表現されている。一方で、カードの解説文にはもっと具体的な情報が書かれている「3000人の被災者に対して2000食しかない」などがそれである。
システム情報としては、圧倒的に少ない資源の分配方法の決定を迫られるという課題が提示され、事実情報としては3000人に2000食という実際に起こった情報が伝えられる。どちらも重要であるが、ゲームという枠組みは、システム情報を学ぶのに適している。
そしてこのシステムは、事実情報に対して「ここがこうだったら?」といった形で、プレイヤーにさらなる思考を求める方向に働く。
「システム情報」と「事実情報」という言葉は、シミュレーションゲームの考察にも使えそうな言葉。
ファシリテータ
教育委訓練用のゲームは、そこに参加している人々にとっては、印象的な、おそらくは忘れがたい体験をもたらす。他方、ゲームに参加したことがない人にとっては、その意義もよく分からないし、体験の共有も難しいという欠点がある。(p.46)
シミュレーションゲームやTRPGも同様です。
そこで、筆者らは、体験できる機会を増やすことを考えた。運用側の人間をファシリテータと言うのだが、そのためのガイドを用意したのである。
従来の防災教育ツールは、その製作者が何らかの形で関与しなければ実施できないものが多い。それが優れたものであるほど、実施の機会が増えることが望ましいわけだが、制作者しか実施することができないということになれば、普及の機会は自ずと限定される。できるだけ多くの方にファシリテータになってもらい、実施の機会を増やすことが、クロスロードの普及、ひいては防災教育の普及につながると考えた。(p.47)
ファシリテータをゲームマスターと読みかえれば、まさにTRPGのことにほかならない。そして、
ファシリテータ用の台詞まで添付したことは、進行の仕方を制限しているようだが、本来の意図は逆である。「これを読み上げれば、ゲームを進行することができる」と思ってもらうことが大事だと考えたのである。防災に限らず、ゲームで優れたファシリテーションをする人は多いが、それがあまりに名人芸のように見られることは、それだけ「自分にはできない」と思う人を増やすことになる。そうではなく、ファシリテータの経験の有無や、その技量に依存せずに、ゲームを進行できるようにしたかったのである。(p.47)
TRPGものには耳の痛い言葉。
システムの工夫
他者の意見を予想するには、まず自分がどうするかを考えなくてはならない。実はこのプロセスの認知的負荷が大きく、結局自分の意見を表明してしまう、ということになりがちではないかとも考えられる。これを、場に出されたリアルなカードを見ることで、他者が下した結果の集合を「裏向きのカードの山」として「視る」ことができる。その中にイエスが多いか、ノーが多いかは、頭の中で漠然と考えるよりも認知的負荷が少なくなるであろう。(p.89)
他プレイヤーの手を読む、というのが実は結構難しいという指摘。TRPGだとPCとプレイヤーの分離の話にもつながると思った。なので、それはシステム(もの)でサポートするのがよいということになる。
実際のゲームプレイを見学してうまく動かない部分があったとしても、そのほとんどはインタフェースを工夫することで解決できるそうです。
ゲームの内容やルールの改変には、慎重な姿勢が求められることもしておきたい、杉浦は、ゲームの内容の恣意的な改変やオリジナルゲームと異なる意図での使用に対して、優良なゲームの開発にマイナスに働く可能性を懸念している。
ゲームと作る、改造する、ということの意義に対する保留。どういうことかは本書ではよく分からなかった。
これらの4枚のカードは、理想の解決がありそうだが、現実にはなかなかそれを実現できないジレンマを扱っているからである。したがって、単純に「イエス」か「ノー」かの判断を問うた場合、正解(あるいは建前)を知っているかどうかを聞くだけになりかねない。しかし、作成に当たっては、正解や建前だけが述べられるような、うわべだけの議論にならないようにしたかった。ここでは、この問題の得点を倍にすることによって、ゲームをプレイしている最中に、より注意深く他者の意見を考えるようにしたのである。(pp.133-134)
シミュレーションゲームではしばしば使われる技法だが、勝利得点を工夫することで注意を喚起したりプレイ方向を誘導したりすることができる。クロスロードでも使われているようだ。
学ぶということ
コスター流で言えば、ゲームは学んでいるときに面白い。では何をどう学んでいるのだろうか。本書にはこんなことが書かれている。
ゲームによって自己効力感が引き出せることは、大人においても同じである。クロスロードのようなゲームではなおさらそうである。プレイヤーはルールという一定の制約の中で、いろいろ試してみることができる。現実のように、失敗をおそれることはない。ゲームという仮想世界の中で、いろいろ試すことによって、柔軟性や自主性や自信を、向上させるのである。(pp.99-100)
キヨサキ・レクターの指摘には2つの重要な意味がある。1つは、ゲームが現実を学ぶのに非常に優れた道具であることを認めているということである。もう1つは、モノポリーがそうであるように、たとえそのゲームが現実の忠実な写しでないとしても、現実のとらえ方や見方を学ぶことはできるとしていることである。(p.101)
ゲームの本質は、本書で何度も繰り返しているように、人々に主体的に考えてもらうためのきわめて優れた技法だというところにある。そこに、脅しや一方向的な正解伝達は必要がない。このことに関連して小山は、「脅しの防災はやめよう」という提言をしているが、筆者らはそれに強く同意するものである。(p.117)
覚えれば済むこと、知っていれば済むこと、を学ぶためにゲームをやるのは意味がない、という流れからの意見。正解を知っていると有利になるのはかまわないが、それだけのことであればゲームでなくていい。むしろ、時間がかかるだけマイナスかもしれない。
*1: 防災ゲームで学ぶリスク・コミュニケーション―クロスロードへの招待