k-takahashi's blog

個人雑記用

ワイオミング生まれの宇宙飛行士

ワイオミング生まれの宇宙飛行士 宇宙開発SF傑作選 (SFマガジン創刊50周年記念アンソロジー)

ワイオミング生まれの宇宙飛行士 宇宙開発SF傑作選 (SFマガジン創刊50周年記念アンソロジー)

 6月のはやぶさ帰還のときに「なぜ、宇宙作家クラブはこれに合わせたアンソロジーを出さないんだろう?」と思ったが、早川が(若干遅れたものの)きちんと出してくれました。

その手紙は、ソヴィエト宇宙計画に対する同志フルシチョフのとどまるところを知らない干渉についてくわしく述べ、もっと理性的で、先を見通せる指導者が介入しなければ、不名誉な事態が持ち上がるとにおわせていた。(「主任設計者」p.49より)

アレースの息の根を止める口実がほしくてたまらない連中がいる。おれたちのひとりが死んだら、そいつらの思うつぼだ(「献身」p.320より)

電話の抗議は<静かの海>への冒頭に対してではなく、お気に入りのシットコム番組が放送中止になったことに対してだった。大半の視聴者は、どのみち月着陸そのものが虚報だと思っていた。あれは日本人とサウジ人がアリゾナ砂漠の一部をリースし、自分たちの出る続編を撮影しただけだ、と。(「ワイオミング生まれの宇宙飛行士」p.366より)


 宇宙開発が闘わなくてはならない相手の一つはもちろん、宇宙そのもの。「冷たい方程式」という言葉が端的に言い表す、妥協のない物理との戦いである。 そしてもう一つは、巨大科学が巨大であるがゆえに直面する政治・社会との戦いである。上記3編は、いずれもその両方の戦いを描いている。
(そう考えれば、宇宙作家クラブはやぶさアンソロジーから「逃げた」理由も分からないではない。6月刊行のアンソロジーなら原稿執筆は年末年始辺りになる。仕分け騒動真っ直中にそんな話を持ち出すのは蛮勇が過ぎるということだったのだろう*1。)
 そして、そういう困難を乗り越える原動力が個々人の信念・情熱・覚悟だというところも、ポストはやぶさ時代の日本人には容易に納得できるところだろう。
 科学と社会と個人がぶつかり合う場である宇宙開発がSFのメインテーマの一つとなっている理由もよくわかる。ハインラインやクラークの時代も今も同じなんだなあ、と。


 さて、本アンソロジーは7編を収録。コロリョフの伝記をベースにした歴史改編もの「主任設計者」(アンディ・ダンカン)と、グレイそっくりの外見で生まれた少年が宇宙飛行士となり生涯を全うする様を描いた表題作「ワイオミング生まれの宇宙飛行士」(アダム=トロイ・カストロ、ジェリイ・オルション)が頭一つ抜けていると思う。どちらもベタと言われればそうかもしれないが、涙無くしては読めない作品。

 他の作品も粒ぞろい。サターンロケットの打ち上げが順調に続き、2001年にディスカバリー号カリストに行ってしまう「サターン時代」、宇宙開発がウェブ開発の速度で進展していってしまう「伝送連続体」、の2作はぶっ飛び系。
 それとは逆に宇宙開発どころか宇宙への関心すら殆ど存在しない世界を描いた「月その六」はディストピアもの。「月をぼくのポケットに」はジュブナイルもので、ここでは宇宙への思いを冒涜するのはガキ大将。でも、2作ともに主人公達は諦めない。

*1:いや、さすがにそこまで考えたわけではなく、たんにタイミングを逸しただけだろうけど