k-takahashi's blog

個人雑記用

SFマガジン 2011年05月号

S-Fマガジン 2011年 05月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2011年 05月号 [雑誌]

特集は、ストロスとドクトロウ。『アッチェレランド』のストロスと『シスアドが世界を支配するとき』のドクトロウ、と書けば特集のトーンが想像できるだろうか。
共作の『無線人』は無線アクセスポイントの提供がテロ行為とみなされる情報統制世界でのトラブルを描いた短編。ドクトロウの『エインダのゲーム』はオンラインゲームのゴールドファーミングをネタにした短編。どちらもSFというよりは、コンピュータ雑誌にでも載っていそうな小説。どちらもなんか古い感じがするが、比較的前(どちらも2004年の作品)のものだからだろうか。
『経験に裏打ちされたリアリティがある一方で、作品にはSFというのはあまりにも空想の飛躍がないといった弱点もある』(p.36)というのがよく分かる2作でもある。


『僕がSFでマンガでアニメでおたくと呼ばれた頃 記憶のなかの80年前後SFファンダム史』(長山靖生)は、

今、そのような受容者論が必要となる憂慮すべき事態が進行している。最近しきりに書かれるようになった各種の八十年代論において、そこにあったはずの「SF」が削除もしくは矮小化されているという違和感を覚えることが多い。たとえばオタクという言葉は、当時はSFオタクにも使われた、というかSF界から広まった言葉だったのだが、今ではその起源が隠蔽/改竄されている。また八十年代の先端的若者文化のなかでは、SFは最もかっこいいものとして扱われていた面があったのだが(その妥当性はともかく、そのように世間からは見られていた)、そうした「歴史」が意図的にか、無意識にか、書き換えられている。しかしSF無き八十年代論は虚妄である。真実が語られなければならない。(pp.92-93)

という議論を呼びそうな小論。まあ、こういう話は議論を呼ぶ方がよいのも事実。ネットに色々と残るようになる前の話は、別にSFに限らず、結構一面的なものだけが流布していることはたしかにあるし。