k-takahashi's blog

個人雑記用

予防接種は効くのか? 〜柔軟な価値観を持つためのケーススタディとして

予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える (光文社新書)

予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える (光文社新書)

ワクチンを巡る日本の「お寒い現状」に対して、なんとかしないとなという意識から書かれたのであろう一冊。ワクチンについての歴史的な事例紹介や、予防接種の考え方とその歴史的変遷などを解説している。

「その硬直した考えはやめて、きちんと考えてみないか」というトーンで書かれており、その分だけ色々と融和的に過ぎるかな、という気もするけれど。

成熟した大人が扱う事物のほとんどは、「あちらを立てればこちらが立たない」微妙な難しい問題です。煮え切らない、すっきりしない、一意的に解決策のない悩ましい状態です。その煮えきらない問題を、「煮え切らない問題」としてまるごとそのまま受け入れ、受け止め、そして音ぢどころを探しに行くのが、成熟した大人の態度です。(p.48)

予防接種に携わるということは、大人の仕事をする、ということなのです。あいまいさを受け入れることができない、子供っぽくナイーブなファンダメンタリストたちは、このような高級な作業には向いていないのですから。(p.49)

という感じで、単純なものではないんだ、大人でないと対応できない問題なのだ、という言い方で、説得をしようという雰囲気が出ている。

医療の本質は、この「リスクを超える利益を得るためのトレードオフ」の行為であるという点にあります。
この本質を見失ってしまうと、「ワクチンの副作用ではありません、あなたの特異体質なんです」という「詭弁が」生じます。「私は責任取れませんから、あなたの自己責任でやってください。ここに同意書がありますから、サインをどうぞ」という「丸投げ」が生じます。「副作用なんて知りませんよ」という「隠蔽」が生じます。「おまえの責任だ」という「糾弾」が生じます。詭弁、丸投げ、隠蔽、糾弾のいずれも、日本という国の政府と国民が共有してきた「ゼロリスク症候群」の典型的な兆候なのです。(p.78)

「ワクチン嫌い」を増やしてきた要因についても、複合的であると捉えている。


その辺の難しさから目を背ける典型が、マスゴミと法曹なのだが、

では、自分たちすら受け入れられないような、エラーを一切許容しないような世界観を、なぜ医療の世界には無理矢理アプライしようとするのでしょう。

と疑義を呈している。


アメリカという国は、ことワクチンに関する限り、「アメリカ的」ではなくなってしまうのです。つまり、個人主義ではなくて集団主義になり、自助努力的ではなく互助的になり、責任追求型ではなく無過失補償制度があり、民間ではなくて公的なプログラムが主体となり、強者中心ではなく弱者中心となります。
この不可思議なアメリカの振る舞いについて僕は美味い説明を思いつかず、先日ある会議でアメリカ人のワクチン関係者何人かに質問してみたのですが、「アメリカではワクチン事業をとても大事にしているから」と愚にも付かないトートロジー的な回答しか得られませんでした。(p.103)

しばしば「世界を単純化して見過ぎる」と批判されるアメリカだが、ことワクチン問題については大人の態度で対応しているそうだ。

ポリオワクチンには、経口生ワクチンと不活性化ワクチンがある。生ワクチンは予防にも感染拡大防止にも効果があるが、副作用の可能性は相対的に高い。
ポリオが流行していたときには経口生ワクチンが適切であり、ある程度押さえた状態になったら不活性化ワクチンが適切となる。この切り替えに遅れたという日本の問題。(p.144)

「何が適切か」という問題は常に意識しなくてはならない、状況が変われば「適切」も変わるのだ、という実例。どんなワクチンをどう使うかという事例が紹介されている。

このあいだ、僕はケニアに出張に行く準備のため、腸チフス髄膜炎菌のワクチンを接種されました。腸チフスのワクチンは炎症が出るのが特徴で、予想通り、摂取部位の肩はやや腫れ、触ると温かく、押すとちょっと痛かったです。でも、僕にはもちろん「予防接種の副作用で苦しんだ」という実感はゼロです。
でも、誰か第三者が、「あなたは予防接種を打たれて痛くありませんでしたか」と問われれば「そういえばちょっと痛い」と答えるでしょう。「腫れていませんか」「少し腫れています」「熱感は」「あります」。
これで、「腸チフスワクチンは局所の熱感、腫脹、疼痛などの副作用が高頻度に認められ」という書き方にすることができるのです。(p.159)

「調査」もじっくり見ないとトリックが入り込むぞ、という実例。これを狙ってやる連中もいるわけだし。



さて、ワクチン問題となると避けて通れないのが、「前橋レポート」。反ワクチン活動家のバイブルである。これについては、こんな風に書いている。

自分たちの行為が正しいかどうか学術的に検証しよう、というこの態度は非常にすばらしいことだと思います(p.170)

「当時の判断」は「時の経過とともに事情が変化し」ます。「証拠が無いままに、これまでのやり方を固守するのは無理が」あります。僕は正直、前橋レポートの文章を読んでいて我が意を得たりとの思いがしました。(p.171)

前橋レポートは、20年以上も前に行われた研究です。その論文作成の経緯や、制作者の熱意や真摯な思いを、僕たちは誠実に受け止めるべきだと思います。前橋レポート歴史的価値は今後も減じることはないでしょう。(p.180)

その上で、

すべての科学論文がそうであるように、前橋レポート感染症学的な意味は、新しい知見に置き換えられるべきものだと思います。
インフルエンザワクチンは集団に摂取することで「群れの免疫」を獲得するのです。(p.180)

と結論している。
ただ、この著者の説明が通るようであれば、そもそも反ワクチン運動が盛り上がるはずもない。ある一つの論文を神聖視し、より新しく厳密な報告を無視する姿勢はニセ科学の常套手段。
前橋レポートはニセ科学ではないにしても、反ワクチン運動は、ねえ。


後書きにはこうある。

ある種の人たちはどうして、あんなにワクチンを憎悪するのでしょうか。そのことを考えてきました。(p.202)

「ワクチン嫌い」の言説は、好き嫌いから生じていると僕は思います。最初は好き嫌いから始まり、そして、「後付けで」そのことに都合の良いデータをくっつけ、科学的言説であるかのように粉飾します。都合の悪いデータは罵倒するか、黙殺します。(pp.203-204)

多分、本書は「ワクチン嫌い」の人に読んで貰いたいという姿勢から、必要以上の批判をしないようにという配慮をしているのだろう。ただ、その結果として「ワクチン否定論には反論するけれど、それ以外のホメオパシーについては知らないよ」という態度になっている。でも、私は、「群れの免疫」という観点で見たとき、先生の態度には賛成できない。
ホメパチを容認する態度は、社会という群れのニセ医療に対する免疫を下げているのでは?

昨今の社会状況に鑑みて

本書に書かれているような態度は、放射線問題についても適用できるはず。
なんか、必要以上に慌てている人、放射線という単語を聞くと思考停止してしまうタイプの人は、本書あたりととっかかりにして、「思考パターンの検証」をしてみるのも一法。