k-takahashi's blog

個人雑記用

頼朝と義時

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が好評だが、歴史研究の立場からはどういう風に鎌倉幕府成立期を捉えているのか、という辺りの最近の研究成果を解説している本。

著者は大河ドラマの製作にも協力(例のオープンレター騒動で降板させられた)していたので、この辺の成果を捉えた上でドラマの脚本が練られたという視点で読むと、副読本としてもよいと思う。ドラマの演出の意図が解像度高く分かるようになるだろう。

 

中国や朝鮮半島の王朝は原則的に文官優位であった。なぜ日本では武士優位の社会が生まれたのか(No.60)

という観点から書かれている。

頼朝はどちらかというと、自分が武士のトップに立つことを目指しており、そのためには朝廷が勝手なことをするのは困るという考え方。典型的には義経の問題(手柄を立てさせるはずの東国武士の見せ場を奪った、朝廷をコントロールするための道具(三種の神器)を確保しなかった、朝廷の指示を受けて動いた)がそれ。

軍事面ではとにかく自分がコントロールすることを優先していた。一方、行政面では朝廷の従来の仕組みを踏襲している。守護・地頭も軍事面の全国支配を朝廷に認めさせた面が大きい。

で、この国家の軍事のトップを武家が確立したのが鎌倉幕府ということになる。(清盛はあくまでも朝廷の仕組みの中で軍を動かしたが、頼朝は独自の組織を確立した)

 

義時(というか政子だな)は、承久の乱を経て幕府の権力を確立したことになるが、これは全国の武士が自分たちの利益を守るには、朝廷の仕組みよりも幕府の仕組みの方が向いているということを、納得したということを示す。承久の乱は、後鳥羽上皇と義時の軍事動員競争、朝廷系システムと幕府系システムの競争であって、これに義時が勝った。頼朝と御家人という人格ベースの関係を幕府と御家人というシステムベースの関係に切り替えることに成功した。

 

教科書的には地頭による支配が進むことになるのだが、実際には荘園制の管理者が御家人になったということ。これはある意味で幕府が体制側に入ったということでもある。軍事・警察・行政、全て武士が仕切るようになった。

 

承久の乱については、実朝暗殺事件で公武協調路線が暗礁に乗り上げたことが原因だろうとしている。実朝は熱心な後鳥羽上皇支持者だったこともあり、後鳥羽上皇は実朝を経由して幕府をコントロールするつもりだった。しかし実朝は暗殺され、義時はあまり上皇のいうことを聞かなかった。これが引き金だったのだろう。

 

 

あと本書で何度も出てくる面白い視点が、「吾妻鏡は北条氏の都合よく書かれているから」ということで、他の資料と合わない部分、流れがおかしい部分に容赦なく突っ込みを入れているところ。「この辺の記載がないのは、都合の悪いことがあったからだろう」なんてのもある。
この視点から吾妻鏡を丹念に読む本とかあると面白そうな。