k-takahashi's blog

個人雑記用

ネトゲ廃人

ネトゲ廃人

ネトゲ廃人

 悲惨な事例がてんこ盛り。ただ、一方的なゲーム否定にはなっていないし、インタビューに答えている人達は、それなりに優秀な人が少なくない。障碍を越えられるゲームという場、ゲームで知り合った人達の絆なども書かれている。
 それでも、これが、廃人状態から抜け出した人、インタビューに答えるだけの能力のある人、というある意味上澄みであることも事実。

 本書中にも何度か触れられているが、このインタビューで見えていない部分が、やはり相当まずいだろうなとは思う。


 以下、抜き書きとか。

ゲームをやるために、外での約束を反故にするようになる。ドタキャンを連発しても平気になってしまうのだ。(p.21)

一つ上の独身の姉が彼氏とうまくいかなくなったときに、栗原千里が「気晴らしにやってみたら」と姉をネットゲームに誘ってみた。失恋で逃げ込むには、ちょうどいい穴になると思った。ところが姉は、完全にゲームにはまってしまい、抜け出せなくなった。それだけでなく、見るからに太ってきた。それなのに、姉自身は、自分がゲームにはまっていることを自覚できていない。「そのことが怖い」 (p.39)

いわばRLとSLの二股をかけている。だが、彼女は、最近、寝ない分、体力がもたないくなっていると感じているという。SLがRLを侵し始めている。(p.55)

だが、彼女のインタビューで気になる言葉があった。「上の子は、ゲームに理解のある子なので」というくだりだった。
ゲームに理解のある子とは、どんな子どもなのだろうか。私は子どもの専門家ではないが、ひょっとしたら長男は、親に何かを訴えることを諦めたのではないだろうか(p.83)

なまじ頭から否定する書き方でないだけに、こういったところからは、「まずさ」をひしひしと感じる。


ネットゲームをしない大人が言うのではなく、彼ら「廃人」経験者が言うのだ。
さらに彼らの共通項は、ネットゲームから自立できる芯の強さを感じられたことだ。(p.109)

僕のインタビューに応じてくれた青年達は、もともとネット依存から自立できる力のある男の子達ではないか、とも感じている。そうではない、自立できない男の子達が、どこかにたくさんいるだろうとも想像した。(p.109)

この辺の記述は、本書に出てくる相手が「上澄み」であることを示唆しているように感じる。

ネットゲームって、一定のラインみたいなものがあるんですね。あるラインを越えると、もう落ちるところまではまってしまうものなんですよ。一般の人は、そこまでは行かない。ある程度、ゲームという感覚で終わるんです。ところが、ある一線を越えてしまうと、もうゲームじゃなくなってくるんですよ。(p.128)

まさに「中毒」であることが分かる発言。


 以下は、韓国の事例。

今、一番問題になっているのが、低所得者の共稼ぎの夫婦の子どもです。お金に余裕がないから塾に通わせられない。子どもを一人家において、親が長時間家を空ける子どもをどのように救済するかです。そう言う子どもは、どうしようもなくゲームにはまってしまいます。政府の支援策として、低所得者の共稼ぎの夫婦の子どもをどうやって指導するか、そこに重点を置くべきだと私は考えています.(p.166)

 ある意味一昔前の日本に似た学歴社会の韓国。そこで、経済的理由で子どもに充分手をかけられない家庭において、子どもがゲーム中毒になっている可能性が示されている。


ゲーム中毒は、憂鬱症やストレスが原因で現れた症状なのか、それともゲーム中毒そのものが問題なのかを区分して考えることが重要です。(p.194)

ゲーム中毒の身体的な禁断症状は、アルコール中毒や薬物中毒よりも弱い。例えるなら賭博中毒、ショッピング中毒に似ている。身体的な禁断症状が相対的に少ない反面、心理的に渇望する効果が大きい。(p.197)

中毒と言うより脅迫と表現する方があっている。(p.197)

ある程度事例をまとめて見ている人達の発言。


 そして、ある意味本書の結論とでも言えるのが

人類はゲームを創造した。ゲームの面白さを知った以上、もう誰も後戻りはできないのだ。では、後は何ができるのか?
 それはチェ院長の言葉を借りるならば、「ゲーム時間を減らすこと」それしかないのかもしれない。(p.201)

ゲームを趣味としてきちんとつきあえるようにということ。もちろんたいていの人はそれができるはずなのだが。


 きちんとした分析でも研究でもない。一記者のレポートでしかないけれど、今後研究が進んでいく分野についての知識として。
やはり「中毒」という言葉が一番しっくりくるんだな、と思った。