岩崎啓眞氏のブログにこんなエントリーがあがった。
前回、制作秘話について疑問を呈したesu-kei_textだが、ふと同じゲームのカテゴリにある最初だからこそできた「最大の禁じ手」 ー 堀井雄二のゲームデザイン(1)を読んで、あまりにあまりな内容で、開いた口がふさがらなくなってしまった。
故・多摩豊氏の名誉のために批判する::Colorful Pieces of Game
この文に参考資料として、敬愛する故・多摩豊氏の著作が参考資料として挙げられるているのが耐え難いので、アドベンチャゲームの歴史とゲーム性にまつわる部分は全くの虚構であり、間違っても多摩氏の著作に書かれていないと指摘していく。
事実関係の指摘については、岩崎先生のエントリーを読んで頂けば充分で、私が書き添えることはない。
ただ、幸いにして元エントリーにあげられている多摩豊氏の著書「テレビゲームの神々」*1が手元にあるので、一応確認してみた。
堀井雄二についての記述は第2章から始まる。(p.33〜)
読んでみると、元エントリーの記述は多摩氏の著作の内容と結構食い違いがある。例えば、
マンガ家になりたい、と思いながらも、その訓練を怠っていた堀井雄二に比べて、他者の絵は、見栄えの良いものばかりだった。それが癪にさわった堀井雄二は、機関誌で文章を担当することにした。
最初だからこそできた「最大の禁じ手」 ー 堀井雄二のゲームデザイン(1) - esu-kei_text
もともと絵のうまかった堀井ではあったが、人を楽しませることが得意だった彼にとって、文字を使って読者と遊ぶのはそれほど難しいことではなかった。(pp.38-39)
1981年、堀井雄二は「劇画村塾」三期生となる。
最初だからこそできた「最大の禁じ手」 ー 堀井雄二のゲームデザイン(1) - esu-kei_text
「劇画村塾」での経験は、フリーライターとして満足していた彼の生活を刺激したらしい。
毎日の仕事に飽き始めていた堀井は、その話に乗った。
彼は三期生として劇画村塾に入った。(p.44)
やがて、彼はさくまあきらたち友人に、それらを遊ばせることにした。彼らにとって、パソコンのゲームは未知の世界であり、それを改変できる堀井雄二は、神にも等しき存在に映った。
最初だからこそできた「最大の禁じ手」 ー 堀井雄二のゲームデザイン(1) - esu-kei_text
コンピュータにもゲームにも疎いさくまたちは、勝手気ままに、さまざまな意見を述べた。そして、堀井はその要望を聞いて、さらにゲームを改良、改造しつづけた。人を楽しませることを職業にする連中に練り上げられて、そのゲームは、売られているものよりはるかに面白いものに仕上がっていった。(p.47)
などである。かなりニュアンスが違っていることが分かる。
岩崎先生が激怒している
「アドベンチャーゲーム」とは、イラストとテキストで状況を説明し、それを場面転換させることで、物語を進めていく形式である。
それに「ゲーム性」をもたらすためにはどうするか?
当時のパソコンの容量では、「選択肢」を用意したところで、10分足らずで終わってしまい、ゲームとしては成立できない。
プレイヤーに「考える」楽しさを味わせることができないのである。そこで考えられたのが「単語直接入力システム」である。
最初だからこそできた「最大の禁じ手」 ー 堀井雄二のゲームデザイン(1) - esu-kei_text
グラフィックでその手がかりとなるのを示し、プレイヤーにその単語を入力させることで物語が進む。
それは、キーボードのあるパソコンだから遊べるゲームであると思われていた。
こうして、ゲームセンターで稼働する業務用ゲームとは異なるゲーム性が生まれたのである。
といった記述は、もちろん多摩先生の著作にはない。このあたりの記述をブログ主がどこから引っ張ってきたのかは分からない。「ヤスという発明」という記事は別にあり、これはこれで面白い分析だと思うのだが、上記部分のような話はない。
他にも、読んでみるとニュアンスの違いを感じる部分が多い。以下の部分とかは、堀井が商業ベースの話に乗った意図についてかなり異なる印象を与えるだろう。
前例のないPC-6001の「日本語アドベンチャーゲーム」を作れば、競争相手がいないから、誰にも批判されるはずがないと。
最初だからこそできた「最大の禁じ手」 ー 堀井雄二のゲームデザイン(1) - esu-kei_text
こうして、彼はアドベンチャーゲームを作り始めた。
当然のことながら、自分でもつくってみたいと考えた。だが、解決しなければならない問題が一つある。
アドベンチャーゲームは、それをつくった本人には遊べないのである。
なにしろ自分で謎を作るのだから、その答えはわかってしまう。これをプレイしても面白くないのは当然である。ということは、せっかくつくったものが面白いのかどうかすら判定できない。
アドベンチャーゲームは、ただつくるだけではなく、誰かに遊んでもらわなければ意味がない。これは彼にとって大きな問題だった。
これを解決してくれたのはエニックスだった。
エニックスは、コンテスト作品のテニスゲームを商品化したのち、堀井に次のゲームをつくってくれと依頼してきた。
−商品になるということは、誰かがこれを遊んでくれるということだ……。
彼が最初に考えたのは、それだった。(p.90)
ということで、あのエントリーの参考文献に多摩先生の著書を使っているのは、やはり不適切だと思う。
*1: