- 作者: フランク・ローズ,島内哲朗
- 出版社/メーカー: フィルムアート社
- 発売日: 2012/12/25
- メディア: 単行本
- 購入: 7人 クリック: 226回
- この商品を含むブログ (15件) を見る
中身は盛りだくさんだけれど、中心となるのは、アメリカの宣伝で使われるようになったAR系の事例紹介。第一章では『ダークナイト』の映画直前に行われた事例の紹介。他にもテレビシリーズやNikeの宣伝などが紹介される。上手くいったものもあれば、今一つだったものもある。残念ながらこの辺は日本にいると今一つぴんとこないものが多く。事情に詳しい人に丁寧な解説を付けて貰えると嬉しい。
こういった参加型のストーリー。日本では同人系の「二次創作」が感覚として近いと思うのだが、そのためには物語(というか、設定)にそれなりの奥行きが求められる。現在に続くそういった「深い奥行き」を持ちそれを一般のファンに開放した嚆矢が「スターウォーズ」。公開後に様々な設定が追加されていき、それを許容しつつ、ある程度オフィシャルがコントロールするという形式が確立していった。(本書には書かれていないが、さらに「スタートレック」が先行していたと思う。商業的にはもちろん「スターウォーズ」の方が圧倒的に大きいが)
映画「アバター」が3Dを「奥行き」表現に使ったことは、まさに世界の深みの表現であることに繋がっていたわけだ。
さて、上記のように宣伝という目的があるので、「オフィシャル」にある程度こだわる必要が出てくる。そこの加減が難しいのは日本の二次創作も同様。スターウォーズはかなり上手くいった例で、「エピソード1〜3の謎に関わる部分」の追加設定は許さないが、そうでないところはかなり自由といった感じでコントロールされていた。(うまく行かなかった事例は本書のなかに幾つも紹介されている。)
ゲーム
本書にはゲームに関わる記載も多い。テレビゲームは一方通行メディアではない双方向メディアであり、テクノロジーの進化を伴って急速に進化してきたものだからだし、創作との関わりという点ではRPG(TRPG)も無視できないものだから。
ただ、本書全体としてははCMやテレビの話題に埋もれてしまって、散漫になってしまたような気がする。できれば、ここも詳しい人にまとめ直して欲しいところではある。以下、幾つか備忘用に。
ゲーマー達は“分岐型物語”への違ったアプローチを代表するタイトルに出会った。『ミスト』と呼ばれるこのゲーム (p.176)
アドベンチャーゲームを作るのは金がかかる、それが死因だった。プレイヤーが遭遇し得る可能性を全て作り込み、事前にスクリプトに書き込むのは金がかかるのだ。(p.178)
リンクを付けるのは誰にでもできる。この誰にでもできることが、90年代最大の発見だったんだよ。(p.180)
参加型の物語には必ずついて回るのが、この“コントロール”の問題だ。作者が作ったゲームを、コントローラを手に操るのはプレイヤーだ。では、物語は誰が語っていることになるのだろう。(p.188)
「ナラティブ」という単語が出てこないのが不思議な展開だけれど、まだ一般化する前に書かれた本なのだろうか?
ドーパミンは快楽そのものではなくて、“快楽を求める欲求”に関係があるということ(p.357)
私たちに最も効果的に動機を与える条件は、なんと3番目の”無作為でなくとも予想が難しい”というものだという。その動機付けの影響力があまりに大きいので、報酬よりも“報酬が与えられるパターン”そのものの方が重要であると錯覚を覚えるほどだ。(p.365)
伝統的には、教室内では生徒達には均等に褒美をやるのが良いと信じられていますよね。でも私たちの実験によると、褒美が出るか出ないか分からないという条件の方が効果的だということが分かったんです(p.367)
この部分は興味深かった。原因がはっきりしない方が、人間の脳は強く反応するというのだ。
以下私の解釈だけれど、原因が無いのではなく分からないだけでそこにこだわった方がよいと捉える方が生存上有利になる、という進化上の要請があったのではないだろうか。
で、それは自然界での競争では妥当な戦略だった。しかし、これは同時に人工的なランダムに対しては判断を誤らせることが多くなってしまう。このズレがギャンブルで身を滅ぼす現象に繋がっていないだろうか。
また、これが、いわゆる「アレア」の楽しみに繋がるのではないだろうか。
(この部分、本書の記載ではなく、私が本書を読みながら考えたことです。念のため)
物語
上記のゲームのところにもちらっと出てきたけれど、そもそもこの「物語の所有権」というのが私が本書を読もうと思ったきっかけ。ただ、こちらもCMや映画TVの話の脇に追いやられてしまったような感じで、ちょっと残念。
でも、面白そうなアイディアはたくさん書かれている。こちらも備忘用に。
新しい媒体=メディアの登場は、常に”物語るという行為”を新しく進化させてきた。(p.15)
活版印刷も、映画も、ラジオも、テレビも。
”分断された物語”という認識だった。例えばワイズマンが話を作り、その話が“本当”であれば存在したであろう証拠を捏造する。そしてその“話”と”証拠”をインターネットに散りばめてやれば、後は“受け手”が勝手に“物語”をつなぎあわせるだろう、という考えだった。(p.38)
設定が好まれるけれど、それを設定のまま楽しむ人よりは、それをつなぎ合わせた物語にして楽しんでいる人の方が、たしかに多そうだ。
”読書”だけでなく”執筆”という行為も広まっていた。(p.58)
ここで言っているのは18世紀の話。ウェブで同じ事が起こっているのが分かる。あるいは携帯小説も同じパターンだろう。そして、
新規なメディアを正当化する最良の方法は、もちろん”それはちっとも新規ではない”という身振りだ。(p.60)
私がここを読んでいて連想したのは、携帯小説が実話を装ったこと。あれがそうか、と納得した。また、twitter で悪事自慢をして自爆するパターンも、本当ならホラ話を twitter という新規なメディアで語りたいのだけれど、それに実話という身振りを載せてしまい、のみならず実際にやってしまった、ということなのかもしれない。彼らは「語りたい」のであって、実行の方が言い訳なのかもしれない。
マスメディアは産業的な産物で“誰か”に与えられたものを、あなたはひたすら消費する。対してディープメディアはデジタルなので、あなたは参加することができる。(p.145)
書き方はちょっと変な感じだが、ニュアンスは何となく分かる。そして、それがマスメディアに不都合がことも分かる。
ビデオが「いつ見るか」というコントロールをテレビ局から奪い、マッドビデオが「どう並べるか」というコントロールを奪い、HDレコーダーが「つまらない部分も見せる」という強制力を奪い、といった感じ。
ネタを一つ
コンピュータ・ゲームの優れたところは、プレイヤーが罪悪感を感じるほどゲームにの中に引き込めるということです。モリニューは、日本人のプレイヤーに関してはそうでもないとも教えてくれた。彼の考察では、日本人のプレイヤーは現実とゲーム世界を完全に切り離して考えることができるので、自分が悪者を演じることに抵抗がないそうだ。だからおそらくロリコンや触手ポルノアニメにもあまり抵抗がないのだろう。(p.376)
モリニューというのは、ポピュラスで有名なピーター・モリニューのこと。
なるほど、欧米の連中は現実と空想を区別するほど成熟していないのか。つまり、欧米が必死に日本のアニメやゲームを叩くのは、成熟した文化に対する僻みである、ということかな。
で、我々日本人はパターナリズム的な観点から、この種の高尚な文化が未熟な欧米人の目に触れないようにしてあげるべきだ、とまで言うと完全に言い過ぎだけれど、ひとつの落としどころ的な解釈にはできるかもしれない。(笑)