k-takahashi's blog

個人雑記用

社会は存在しない

社会は存在しない

社会は存在しない

 サブタイトルが「セカイ系文化論」。

セカイ系をめぐる諸問題について、ゼロ年代が終わりをつげようとするいま、時代的な意義と批評的な射程を捉え返し、広範かつ多様に展望する。また、セカイ系的な「リアル」を最も身近に体験してきた二〇代から三〇代の若手論者たちを中心とした初めての本格的なセカイ系評論集。(表紙より)

と言うことで一通り読んだのですが、正直手に余るというか。特に後半の文学やら映画やら演劇やらの部分は話がさっぱり分からず。微積が分かっていない人間が力学の教科書を読むとこうなるんだろな、などと思ってしまいました。要するに説明の道具が全然分からないので、話を追うことはできても中身はちんぷんかんぷんなんですよ。


 もっとも、前半部分だって理解できたかというと怪しいものです。とりあえず以下に備忘録代わりのメモを。「萌え」も得心するまで随分かかったので、そのうち分かる日が来る(といいなあ)と思いつつ。

序文より

それは「物語の主人公(ぼく)と、彼が思いを寄せるヒロイン(きみ)の二者関係を中心とした小さな日常性(きみとぼく)の問題と、『世界の危機』『この世の終わり』といった抽象的かつ非日常的な大問題とが、一切の具体的(社会的)な文脈(中間項)を挟むことなく素朴に直結している作品群」を意味している。(p.6)

  • 宇野の議論とは、

セカイ系を「引きこもり/心理主義」と「レイプ・ファンタジー」の物語的想像力、つまり、あらゆる選択(社会的コミット)からの逃避(「〜しない」という否定神学的倫理)と母性的承認への自堕落な欲望の形態だと定義し、ゼロ年代を通じて注目を浴び続けたセカイ系を端的に「古い想像力」だったと一蹴(p.8)

セカイ系と例外状態(笠井潔

 セカイ系では社会が消失した。その消失した社会とは何か。
それは社会契約論的な近代社会であり、二十世紀後半の福祉社会である。福祉社会は国家によって実現されていたが、それは例外的な国家であった。そうした例外的な国家が例外的な社会、そして例外状態へと変わっていく。それが現代。
 セカイ系では敵の正体ははっきりしない場合が多い。これは、社会が混濁状態にあることの反映である。社会もなにがなんだか分からない、個人も同じ。
 そういった世界においても、バトル・ロワイヤル的決断とは「生きる」という至上命令に基づくものであり、根拠に基づく健全なものである。それとは対極に「無根拠な決断」がある。この無根拠な決断が決断主義でいうところの「決断」である。
この「決断」には根拠がないが、人間は無根拠な選択に耐えられない。そこで選択の基準として選ばれたのが「強度」である。より「強い」ことが選択の理由になるが、なんのために、という根拠は持たない。
 社会領域が消去されているという点で、宇野のいう「セカイ系」と「決断主義」は、いずれもセカイ系である。そして、宇野の言う「決断主義」はまだ1930年代的決断主義には到達していない。
 セカイ系的な想像力のポイントは、あくまでも社会領域の消失にある。

セカイ系シリコンバレー精神(飯田一史)

 サイバーパンク、初期インターネットを経由した存在という点で、IT起業家とセカイ系作家とは平行している。
 梅田望夫は「神の視点」と「鳥の視点」を区別し、シリコンバレー精神を神の視点という言葉で表現した。一方セカイ系の場合は、地上から上昇していくというとらえ方になる。これはいわば「鳥の視点」である。ここがセカイ系シリコンバレー精神の違いである。

イリヤの空、崇高をめぐって(佐藤心

 「崇高」は、フィジカルには不快でしかないような対象に対して、それを乗り越える主観の能動性から来るメタ・フィジカルな快に他ならない、とされる。しかし、実際には、能動性がなくても快は残る。
 青少年系異世界マンガは4つの象限からなう。非日常的で大世界に言及する I「サプライム」(例:ヤマト)、日常的で小世界のみに言及する II「無害な共同性」(例:うる星)、非日常的で小世界のみに言及する III「エロインフレ」、日常的で大世界に言及する IV「陳腐な終末」(例:アップルシード)。
 イリヤは、この分類のどこにも入らない。イリヤの世界ではヒロインだけを追い続ける主体と、物語の謎を探り当てようとする主体とが対立している。それどころか両者の世界観がせめぎあっている。この対立は上述の4分類の「II」と「IV」の対立に相当する。これが同一作品内に存在していることが、イリヤのひいてはセカイ系の特徴であると言える。
さらにイリヤでは、「II」から「I」への飛躍がおこる。それは、日常と非日常が伊里野という特異点を通じてのみつながっている。

セカイ系作品の進化と頽落(小森健太郎

 1980年代のバトル/恋愛ものが、一対一を基本とするのに対し、2000年代のバトル/恋愛ものは一対多ないし多対多に移行している。
 セカイ系の作品は、恋愛ものとしては、一対多のハーレムものではなく、一対一の純愛ものである。
 バトルものとしても、セカイ系作品は、少年ジャンプの黄金律、努力、友情、勝利に真っ向から反している。努力というのは主人公の成長を示すものだから、努力を成長と言い換えてもよい。敵との戦いを通して成長していくジャンプ系の主人公に比して、セカイ系作品の主人公たちは、成長せず、友情を結ばず、勝利しない。そこにこめられたメッセージは、単純化すれば、大人にならないと要約できるかもしれない。
 シャナの卓越したところは、セカイ系に共振しつつも、悲劇や破滅へとつながるダウン志向を止める、ストッパーのごとき設定を導入したところにある。
 最終兵器彼女などのセカイ系源流作品は、主人公の男性が、ヒロインとセカイの悲劇を受け止める役割を負わされていたのに比して、最初から死せるものである坂井悠二は、そういう悲劇を死者として、つまり透明な存在として、ヒロインとセカイの行く末を見守る存在に徹することができる。それによって重い悲劇を受け止めさせるセカイ系の物語は、気楽に楽しめるエンタテンメント物語へと変容することができた。
 エルフェンリートはシャナが安全弁として設定した、先の二つの要素を意識的に決壊させる構造をとっている。本来共存し得ない、平和な恋愛の教授と、セカイの存亡をかけたバトルについて、シャナは両者を区分けしておける便利な設定を編み出した。エルフェンリートはそれに対して、セカイでのバトルが日常生活も恋愛も破壊していく必然性と向き合った作品である。

セカイ系ライトノベルにおける恋愛構造論(長谷川壌)

 セカイ系の主眼が、キャラクター性、あるいはその内面および関係性にあることは容易に伺える。キャラクターの情動をストレートに描くことのできるこのギミックは、キャラクターの押しが弱い場合でもそれを補う働きがある。つまり、印象の薄いキャラクターでも、キミとボクタイプの恋愛に結びつけることで、印象を強化することが可能だということだ。以下で考察するように、このキミとボクタイプの恋愛がセカイ系と呼ばれる作品を決定的に規定し特徴付けるものである。
 主役となるのは、無個性的な普通さに加えて、消極的で非能動的・受動的なタイプである。だが、主役が無個性的な存在である上に、戦いや恋愛にも積極的に関与しないのでは、普通は盛り上がるドラマを作ることはできない。そこで、エヴァなどに持ち込まれるのが血の宿命という設定である。
 セカイ系の物語は、主役におわされたこの血の宿命を取り払い、それに変わるものとして、ドラマを駆動させる、主役の背負う役割を、徹底して恋愛完成に担わせる。
 この、誰でもあり誰でもない主人公を設定し、それを無理矢理に大きな物語に直結させる構造こそ、セカイ系の根幹をなしている。
 社会領域が消失したように見えるのは、従来は血の宿命に負わせていた物語を駆動するモメントさえも「キミとボク」の恋愛へもたせようとしたことからくる、派生的な帰結に過ぎない。
 イリヤ以前においては、セカイ系における恋愛が主題になるのに対し、イリヤ以降においては、恋愛におけるセカイ系というギミックが主題に移行する。
 文字通り住む世界の違う人間同士の恋愛となる点では、むしろ古典回帰的である。このようにセカイ系は二人の格差を作るためのギミックとして用いられるようになる。
 主人公の決断する余地を与えたらどうなるのだろうか? それはたとえばエヴァ
 セカイ系は、二人の間にある困難を描き出すのに効果的なデバイスである。だが、セカイ系だけのプロットを構築すると、主人公たちの無力さ故にハッピーエンドに至ることができない。セカイ系の純粋さを保ちつつ、ハッピーエンドに至る物語は可能だろうか?
 主人公があずかり知らぬところで展開されるラブコメディ。つまり、他人の好意に鈍感な主人公が生まれる。これによって、選ぶ権利を持ちながら、選ぶ権利が存在することを知らず、その結果、選ばない状態のまま維持することができるようになる。

以下個人的なメモ