- 作者: ダニエルドレズナー,谷口功一,山田高敬
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2012/10/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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人文科学とハード・サイエンスは、人肉を喰らう再生した屍体によって提起される問題に対して注意を払っている。しかし、社会科学は、これらの探索の隊列からは外れてしまっている。(p.25)
一昨年、Googleのセキュリティディレクターが「もし、Googleがエイリアンに攻撃されたら?」という想定の訓練を行ったという記事があった。(私の感想はこちら。)
この感想の中にCDC(米国疾病予防管理センター)がゾンビ対策を公表したことに触れた。あれはCDCはどうするか、一般市民はどうするべきかという啓蒙の意図で書かれていた。どちらも、特殊な状態を想定することで、今立てている対策や準備を再点検するという意味がある。
日本だと、前田建設ファンタジー営業部が近いかもしれない。あれも、架空の建築物を作るという話をしつつ、実際には建設技術や見積もり技術の検証をしている。
では本書はというと、以下の引用部分を読むと分かりやすいと思う。
マルクス主義者にとって、アンデッドは抑圧されたプロレタリアートを象徴している。全てのゾンビがアンデッドとなった白人男性でない限りは、フェミニストは、進化した人類が既存の家父長制構造を破壊するのを歓迎する。(p.31)
要は、ゾンビアウトブレイクという灯りを使って、既存の理論(勢力)の考え方や問題への対処の仕方を照らし出し、そういった理論を理解する一助となすという一冊なのである。
レアルポリティーク
人間の協力の失敗は、ゾンビの基本原則を貫く共通のテーマなのだ。それはちょうど、リアリストの歴史解釈を貫いて繰り返し現れる「国際協調の不毛さ」と同じである。(p.58)
『ランド・オブ・ザ・デッド』のラストでは、ゾンビのリーダーと人間のリーダーが、お互いを放っておくという暗黙の取引を認めるに至る。これは、完璧にリアリスト的なパラダイムと整合的な事態である。(p.65)
リアリスト国家は、ゾンビと戦う国家とゾンビ達自身との間の紛争を扇動し、両者が蒙る相対的な被害から利益を得ることとなるだろう。
リアリストは、ゾンビ国家がその内部で生き残った人間とアンデッドの双方をどのように取り扱おうが、不干渉を提唱することとなるだろう。結局の所、リアリストは、人類の国家とゾンビ国家との間には、何らの本質的な差異も存在しないという結論に至る。(p.67)
確かに、適当な国名を入れればそういう国家は実在するような。
リベラリズム
フリーライダー問題を発生させる。リベラルにとっての難問は、相互協力の帰結が相互の裏切りよりも良いものである一方で、自分だけが裏切った場合こそが個人にとっては裁量の帰結がもたらされる点にある。(p.71)
エイズ、ポリオ、マラリア、結核や多種多様な型のインフルエンザは、国際的な対ゾンビ・レジームが直面することとなる困難を露わにする。(p.80)
幾つかの国々は、問題がエスカレートしてローカルなレベルでは制御できない段階に至るまで、ゾンビ・アウトブレイクに関する情報を適切なタイミングで提供することができないかもしれない。
(中略)
巨大な市場を持つ国による政策的対応が、既に宣言された食屍鬼のアウトブレイクに対して及ぼす経済的なインパクトを怖れるのだ。(この問題は途上国に限定されたものではない。食屍鬼の存在が探知された場合、喫緊かつ重要な二つのことが予想される。すなわち、EUはイギリスの牛肉を完全に禁止し、日本と韓国は、米国産牛肉に対して同様の禁止措置をとることになるだろう。)(pp.80-81)
本書で言うリベラルは国際協調路線のこと。最終的にはあるていど対応できるものの、という位置づけになるようだ。
ネオコン
リベラルと同様、ネオコンは、世界が民主的になることによって、より安全を保証されたグローバルな秩序がもたらされると信じている。(p.86)
他方、ネオコンは、リアリストとの間で、国際機関に対する疑念も共有している。(p.87)
ネオコンは、ゾンビが世界政治の他のいかなるアクターとも買わないとするリアリストの主張を嘲笑い、また、グローバル・ガバナンスの諸制度によってゾンビに対処できるというリベラルの主張をも嘲笑う。人類による覇権の持続を確かなものとするために、この学派は、代わりに攻撃的で軍事化された対応を推奨する。(p.88)
まあ、そうなるだろうな、と。
構成主義
ほとんどの構成主義者は、代わりに、各国政府がアンデッドの脅威に対抗するために主権と資源を共有し合う、カント的な”多元的な対ゾンビ安全保障コミュニティ”が成立する可能性が高いだろうと想定する。(p.98)
構成主義者は、二つの論争的ではあるが具体的な政策提言を提供する。第一の先制攻撃は、これまでに作られたゾンビ映画の全てのフィルムを破壊することである。
(中略)
直面した際に食屍鬼が見せる強靱さについて、セキュリティ関連機関は、対抗的ナラティブの形成を援助しなければならない。(pp.99-100)
第二の政策的示唆は、ゾンビを人間文化へと社会化するというものである。
(中略)
より多くの人々がアンデッド派に転身させられると、残された人間は、ゾンビの風習に従う物質的・社会的な圧力を感じることとなる。
(中略)
ゾンビの他の生活様式は多くの人間にとって魅力的なものだろう。リビングデッドは風呂に入ったり、ひげを剃ったり、服を着替えたりしなくても良いし、自分たちの同類を外見で判断することもない。ゾンビは、人種や肌の色、民族、性的嗜好に基づいた差別をすることもない。彼らは常に大きな群れでいる。彼らは究極のエコを実践している。ゾンビはどこにでも歩いて行き、オーガニック食材(人肉)しか食べない。(pp.101-102)
この視点は面白い。ネタバレになるから名指しはしないけれど、SFにはこういう発想のものが幾つもある。
国内政治
書記の政策的誤りによってゾンビ問題が持続するようなら、ゾンビ化した者の親族からの抵抗や、アンデッドを破壊しきってしまうことの兵站上の困難さから、グローバルな政策の確定において、国内政治がますます重要な役割を果たすようになってしまう。立法府は緩慢にしか発言をしなくなり、利益集団は政策オプションに制約を加え、大衆はリビング・デッド禍を除去するための広域に亘る軍事作戦に対して反抗的になってゆくだろう。もし、このような結果が多くの国で起こるとしたら、アンデッドと戦うための意義ある国際協力のためのバーゲニングのコアは、緩やかに崩壊することとなるだろう。(pp.114-115)
環境問題や人権問題が、まさにこれだ。
官僚政治
官僚の争いや組織の病理が効果的な対テロ政策を阻害するものであるのならば、それが対ゾンビ政策に対してどのような影響を与えるのかを想像してみれば良い。官僚達の縄張り争いは、語のあらゆる意味で血なまぐさいものとなるだろう。(p.119)
政府機関は、最初は制約を受けることなく行動することができるが、時間の経過と共に政治が強力な制約を課すこととなる。組織の観点からは、これとは逆の物語が描き出される。つまり、官僚制は時間の経過と共に改善されるのだ。もし国内の政治的圧力と官僚政治の双方が、政府の政策に対して影響を与えるのならば、これらの複合的な影響は、二重の意味で悲惨な事態を引き起こす。政府の諸官庁は、悪しき意志決定を行う可能性が最も高いときに、最も高い自立性を有する。このような官僚制が、ゾンビという新たな緊急事態に適応する頃には、官僚制は自らのパフォーマンスを阻害する政治的な障碍に直面することとなるだろう。(pp.128-129)
なかなか絶望的な結論が書かれている。無能なときに自由に動き、有能になったら自由に動けないという予測なのである。
感想
専門家が本気で考えたものはやはり面白い。分量としてはそれほど多くないし、ゾンビものについての知識が多少なりともあれば、読むのはそれほど大変ではないと思う。そういう意味で、ある種の条件を満たした読者に対しては、「良い社会科学の入門書」となっていると思う。
本書が教科書的に使えるというのは、ゾンビ映画やゾンビ小説が多数あるため具体例を詳細に記載することができ、そして読み手がそれを知っているというところにある。だから、日本だと怪獣を例にするのがよいのかもしれない。本書は米国の学者が書いたものなので、日本は日本なりの分析が必要だろう。
巻末には訳者等による、妙に充実した注釈がついている。みんな、ゾンビ好きだねえ。
オチ
最後に、『国際政治の理論』の著者であり、私の専門分野の大権威であるが、実のところ実際に会ったことはないケネス・ウォルツに対しては、ひとこと言っておきたい。マジで、すいません……。(p.155 謝辞 より)