k-takahashi's blog

個人雑記用

コマンド 108号

付録ゲームは『ノモンハン 1939』。中黒靖デザイン。
史記事はヒストリカルノートが一本と『ノモンハンジューコフ』(大木毅)。ノモンハン戦は、冷戦終結後に旧ソ連側の資料が出てきたことで評価の見直しがかかっているが、その辺を踏まえたゲームデザインであり、歴史記事になっている。

歴史的前提を知っている日本軍プレイヤーが、史実の日本軍のように振る舞うことはまずない。あるとすれば陰謀ルールという名の特別ルールによって、である。それがなければ日本軍プレイヤーは史実とはまるで異なる作戦を立て、無謀な攻撃は行わないだろうし、ジューコフによる二重包囲も容易には完成しない。すると話は作戦級から戦術レベルに、あるいは戦略レベルに移行してしまう、というのがこのテーマを作戦級として成立させるのを難しくしている理由ではないだろうか。(大久保城治氏の記事 p.22)

大木毅氏の記事中にも、ノモンハンが大勝利だったということをスターリンジューコフが政治的に利用しており、それゆえ事実が伏せられたということが書かれている。こうなると作戦級で扱う話では無い。

デザイナース・ノートにも、『ドイツ以外戦車軍団』用にデザインされたがシステムに合わなかったという記載がある。そして、

従来言われているほどの完敗というのではなく、ソ連軍も甚大な損害を出していた、ということでしょう。
日本軍に勝機があるとすればまさにそこ、敵野戦軍の撃破ということになります。

として、モラルチェックによる勝利というとデザインに繋がっている。
ということで、歴史事実の発掘、再評価、ゲームデザイン、という流れという意味で興味深い事例になっていると思う。


一方、桂令夫氏は田中克彦氏の著作を紹介しているのだが、

必ずしも「ソ連崩壊による新資料の公開」で初めてこうした本が書けるようになったわけではない、ということが分かる。(p.50)

今日きわめて多くのムスリムによって共有されている誤解が、20世紀のソ蒙両国の研究者によっても共有されていたことがよくわかる。(p.51)

歴史研究が政治によって潰されて、母国の歴史ではなくソ連の歴史を押しつけられていた話は、最近の軍事研究誌の斎木伸生氏の北欧レポートにもあった。モンゴルも似たようなものだったのだろう。

野獣げぇまぁ

徳岡正肇氏のコラム。短時間ゲームの話だが、最後の部分は謹聴に値する話。

これは「アナログゲームはすべて15分いないに終わるべし」という話ではない。だが15分で決着するゲームが増えていかないと、新しくアナログゲームに興味を持った層に実際にゲームを遊んで貰うのは困難だというのが、筆者の実感である。その15分という「最初の一歩」を登った人の内、何人かは1時間ゲームを遊ぶようになり、そのうち何人かはより重たいゲームも楽しむようになるだろう。だが現状、その階段の最初の一段目は、作品的にも環境的にもまだ補強が必要に思える。(p.59)

そして、わがウォーゲームの場合はなおさらである。

魁、コマンド士官学校

大久保俊治氏の「作戦を考えよう」という趣旨の連載なのだが、今回はちょっと微妙。既にF男氏が

ルール改定に繋がるような作戦研究は、私に言わせると「最低でも舗装されてない道路。下手するとクルマ通れるけれど道じゃない。」ようなモノ。対応可能ならともかく、私なら一般論として通行は推奨しない。記事を書いたDASREICH殿が通行可能なのはわかっているからいい。けど、この記事の対象は「その辺が怪しい」読者じゃないの?

1月4日: F男の誰も付いていけない話

と書いており、私も概ね同意。大久保氏の言いたいことは分かるけれど、想定読者のことを考えたら、表現はもうちょっと変えた方が良いと思う。