ということで、平成シリーズとかVSシリーズとか言われる、ゴジラ第二シリーズを一通り見てみた。
メカゴジラの逆襲から9年ぶりに復活した84年のゴジラ(この時点ではまだ昭和だけれど、ここを含めて第2シリーズになる)。ドラえもん映画(1980年)の併映にモスラ対ゴジラを入れてみたりして様子を窺っていたけれど、結局子供向けではなく一般向けで作ることになった。
第2作のビオランテ以降が「ゴジラ対○○」だったこともあり、VSシリーズとも言われている。
ゴジラ(1984)
9年ぶりのゴジラ映画。リブートするにあたり、色々な路線が見当されたそうだが、最終的には、ゴジラがくるかもしれないと思っていたところに、ゴジラが来たらどうなる?というのを30年前と対比しつつ描いたものになった。
火山の噴火でゴジラが目覚めて、それを最初に遭遇するのが漁船。やっぱり漁船。序盤はホラーテイストで、巨大なフナムシ、無人の漁船、ミイラ化した死体などが登場する。
横暴メディアは相変わらずだが、煙草吸う人多い。
30年前に一度だけゴジラが襲来したという設定。どうも、オキシジェン・デストロイヤーはなかったことになっている。
色々備えていたかいがあって、自衛隊は一旦ゴジラを止めることには成功。その後ロシアの核爆発の衝撃で雷雨が発生、雷でゴジラが目覚める。ただ、平行して進めていた三原山誘導計画が功を奏してゴジラを再び封じ込めることに成功する。最後は三原山の火口にゴジラが沈んでいく。
音楽は新規に起こしている。ゴジラ・タイトル、ゴジラの脅威ともに使ってない。ただ音楽は悪くないし、エンディングはボーカル曲(英語)という趣向もある。
沢口靖子と武田鉄矢は、あまりうまく使えてない。お遊びの武田鉄矢はともかく、沢口靖子はこれで新人賞取っているのだが、ちょっと信じがたい。
戦術核の話が出てきたり、迎撃ミサイルが登場したりしていて、この辺は世相の反映か。当時の技術なので海上を移動中のゴジラを攻撃するのは無理なので、日本にいる間に撃ちたいということになる。ただソ連はともかく、米軍が日本で核兵器を使いたがる設定はちょっと苦しい。
ゴジラvsビオランテ(1989)
すぐに続編が作られるかと思いきや、実は5年開いている。
第一シリーズの積み残しを色々と取り込んでいる。国際謀略、生物兵器、超能力、新兵器メカ、そしてなにより初代で芹沢博士が懸念していた「オキシジェン・デストロイヤー争奪戦」をゴジラ細胞と抗核バクテリアの争奪戦に読み替えて見せたところ。折角復活したゴジラで、過去のリベンジを果たしている感じがある。
土木シーンとか自衛隊が動き回る描写が多いのは昭和シリーズと同様。
ビオランテも抗核バクテリアも、結局の所「ゴジラに対抗できるのはゴジラ」というところを基盤にしており、この辺の発想はメカゴジラ譲り。
ただ、ビオランテの扱いが、作ったはいいものの持て余している。これもヘドラのようなオリジナリティのある怪獣を出したかった、しかも序盤で力尽きたヘドラではなくきちんと最後まで作りたかった、のだろう。ただ、これは上手くいかなかったと思う。アイディア段階でどうだったのかは分からないが、映画のストーリー上ビオランテがなくても困らないのだ。抗核バクテリアが上手く作れず、植物と怪物を繋ぐところに人間を使った(愛娘を使ってしまった)としてもいいのである。もっとも、何か見せ場が欲しい、怪獣出したい、というのは前提だったのだろうが。
白神博士も、本来なら芹沢博士ポジションなのだが、ビオランテ作りの設定も入れたことでマッドサイエンティストになってしまい、ちょっと焦点が合わなかった感はある。
なにより、沢口靖子の昇天は、あれはないわ。ラストのポエム朗読も含めて、やはりビオランテをうまく使えなかったことの現れだろう。出オチで終わったヘドラよりは良くなったが、設定に凝ったオリジナル怪獣を、ゴジラ映画の枠で作り出すのが難しいことが分かる。
音楽は非常に軽妙なものにまとめられているが、それがゴジラタイトルを引き立てる効果を出している(超能力研究所のシーン、三原山のシーン、サンダービーム作戦のシーン、と3回使われており、いずれも効果的。)
ゴジラvsキングギドラ(1991)
新怪獣が今一つ受けなかったので、人気怪獣を出して暴れて貰おうという企画。となると、候補は、モスラ、ギドラ、メカゴジラというところで、実際このあとに続いていく。
戦中に玉砕を免れた島があり、それはその島にいた恐竜が米軍を追い払ったから。その島が戦後水爆実験の舞台となり、放射能で恐竜が巨大化したのがゴジラだ、という設定。これが物語上では、一旦ゴジラ化がキャンセルされ、その恐竜はベーリング海へ移動されるがベーリング海のソ連潜水艦の放射能で怪獣化したと微妙な設定変更。キングギドラの方は、もともとは宇宙怪獣だったのが同じく水爆実験で巨大化したペット用有翼生物だということになっている。
ストーリーは時間ものをベースにしていて、強大になった日本を過去に遡って成敗するためにキングギドラを作ろうとする時間犯罪者が悪役。テロリスト集団だからということなのか、計画や実行が色々ザルになっているし、結局仲間割れで計画は失敗に終わっていて、時間ものでそれかよというのは当時から指摘されていたこと。だいたい、時間ものの映画というのを成功させるには、細かいところに気を配った脚本・演出が必要なのだが、その辺がザルなので映画としてはなんじゃこりゃなできになってしまった。
ただ、昔見たときには頭を抱えたストーリーだけれど、昭和シリーズを見た上だと、「まあ、いいか」ぐらいな気分にはなれる。
東京、大阪、と来たので次は福岡、札幌を壊している。でなぜかもう一度新宿に戻ってくるところは意図がよく分からない。ゴジラvsキングギドラとゴジラvsメカキングギドラの2戦あるので怪獣激突ものとしては十分なボリュームがある。
小ネタとしては、ムー編集部が出てきたり、矢追純一が出てきたりする。アンドロイドM11はターミネータの割とベタなパクリ。
帝洋グループという大企業が出てきているのだが、なにやら意味不明な悪役を割り振られていて、当時はまだ大企業悪玉論が普通に通じていたのかな。
音楽は伊福部サウンドが大々的に使われている。
ゴジラvsモスラ(1992)
こちらも以前からの人気怪獣を登場させての作品で、モスラを登場させている。加えて一般受けを狙って、子供を登場させたり、離婚した夫婦の復縁を扱ったりとわかりやすい構図にしている。実際、興行的には平成vsシリーズで一番成績がよかった。
暗黒面のモスラとでもいうべき「バトラ」を登場させ、光線技を多用することで映像は派手になっている。中盤まではゴジラ・モスラ・バトラの三つ巴だが、終盤でモスラとバトラが和解し、協力してゴジラと戦う展開となる。
一方で、ストーリーは雑な部分が目立つ。人間ドラマはそれはそれでやればいいのだが、前作よりさらに適当な印象を受けた。小美人(コスモス)を奪回に来るモスラ、というのももう少し丁寧に扱えばいいのに。
横浜での戦闘中、ランドマークタワーでゴジラを殴るシーンがあって、狙ったものではなく偶然起こった描写とはいえ、面白い。ただ、観覧車でゴジラを殴り倒すのは、さすがに牽強付会のような。
音楽は今回も伊福部先生が担当。小美人(コスモス)の歌は、ちょっと軽くなってしまったかな。
ゴジラ対メカゴジラ(1993)
ギドラ、モスラと来て、次は真打ちメカゴジラの登場。メカキングギドラを分析して作ったという設定で怪獣型を正当化している。
それはそれとして、ベーリング海アドノア島で謎の卵が発見される。例によって核廃棄物で変異したラドンともう一つはベビーゴジラ。このとき一緒に発見された植物からテレパシーのようなものが出ていることが分かる。本作、このテレパシーが濫用されていて、テレパシーで呼び合うのが何度も出てきてこれが展開を混乱させている。もう一つは、一度やられたはずの怪獣が、やたら力を取り戻すシーンが多い。この辺をもう少し整理すれば、最後のラドンとゴジラの合体シーンがもう少し盛り上がったと思う。
ストーリーは相変わらず雑なままで、怪獣シーンと怪獣シーンの間をとりあえずつないでみたという感じになってしまっている。翼竜マニアとか超能力(テレパシー)の設定をもう少しきちんと使えば良かったのにと。あと、ベビーゴジラまわりが、「(外見が可愛いのに)扱いが可哀想」という展開にしか見えないのも勿体ない。
戦闘シーンは豪華で長さも十分あり、今回どの怪獣も光線技を多用するので映像的にも派手なものになっている。一方でどの怪獣もピカピカと光線を出すのでメカゴジラが今一つ映えない。というか、本作のメカゴジラがどうもぱっとしないのだが、移動がホバー中心なのと火器で他の怪獣と差異化が出来ていないせいかな。
ゴジラ対スペースゴジラ(1994)
これは何を狙って作ったのか、見てもよく分からなかった。怪獣の出てくるシーンは多いのだけれど。便利なテレパシーはさらに濫用に拍車がかかった感じ。戦いは良くないとか地球のためとかやたら出てくるのは当時の時代性か? オウム事件の影響はないのかと思ったが、調べてみたらオウム事件の前の94年製作で、公開は94年の12月だった。
エンディングにボーカル曲が入ったのは10年ぶり。
戦って満足したゴジラが海に帰っていくエンディングも昭和ゴジラのお約束の踏襲だが、最後にとって付けたような初代パクリ台詞が入っていて苦笑。
シリーズで、ギドラ、モスラ、メカゴジラを使い捨ててきて、今回はモゲラになっている。分離・合体のギミックが付いているのだが、見せ方は今一つ。新怪獣のスペースゴジラも、強さの描写がどうもあまりうまくない。
上手くないと言えば、リトル・ゴジラとか超能力少女とか、マフィア組織とかも、思いつき的に登場させているようで。この辺のいい加減具合も昭和末期を連想させる。
よく、これで次回作のゴーサイン出たなとおもう。
ゴジラ対デストロイア(1995)
ハリウッド版ゴジラ(エメリッヒ版、1997年)が本決まりとなり、日本のシリーズを一旦終わらせることにして、そのために作ったストーリー。デストロイアは、「オキシジェン・デストロイヤー」が怪獣化したもので、これでゴジラもおわり、と。
それで、過去の映像や設定をもってきて一区切りにしようとした、その意図は分かる。劇中やエンディングに過去の映像を色々挟んできたり、ストーリーに過去の設定を入れ込んだりしている。この映像では過去の他の怪獣がことごとく削除されているのが、VSシリーズ失敗を象徴している感はある。
その過去の設定だが、山根恵美子に芹沢博士の苦悩を踏みにじるような発言をさせたり、山根恭平博士(初代で志村喬が演じていた学者)の子孫の扱いがぞんざいだったりで(ゴジラオタクの方はもっとマニアックでいいはず。)、折角の初代の遺産を無駄遣いにしてしまっている。
デストロイアも、酸素反応の化け物にするならもうちょっと見せ方があるはず(地球をかつての無酸素環境に戻してしまう怪物だとすれば、人類の危機を設定できる)だが、ゴジラを原子炉に見立てて反核映画にしようとした都合上そうは作れなくなってしまった。ゴジラを原子炉に見立てるなら見立てるで、ビオランテの抗核バクテリアの方が設定としてはスムーズにつながるはずだが、東宝としては初代設定を使いたいというのと、あとビオランテは興行的失敗作だから使いたくなかったというのもあるのだろう。
最後はデストロイアによるゴジラ封印が失敗、そのままゴジラはメルトダウンするが、それをリトルゴジラが吸収(?)して、次世代型が誕生するというオチ。
音楽は伊福部サウンド。エンディングにはコングの音楽が混ざっていてファン的には嬉しいが、本編からは排除された話なので正直違和感もある。