k-takahashi's blog

個人雑記用

偉大な兄弟はぼくらの同時代人

 一昨日のエントリーにコメントと質問を頂いたので、私見ですが回答を。

ああ、上はもちろんPC/NPCという地平およびプレイヤ・他のプレイヤという地平だけを問題にしています。「誰か」がGMをすら含まないのだとすれば、それはもうRPGではたぶんないだろう。

偉大な兄弟はぼくらの同時代人 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

そうです、分かりにくくてすみません。創作されたPCに自由意思の存在を認めるかどうかというのは非常に興味深い話題ですが、ここでは遊ぶ側の人間を想定していましたのでプレイヤー(およびマスター)の話です。プレイヤーがPCの行動を決定する際に、その決定を「見る目」として必ず自分以外の存在があるから、その目の存在によって意思決定は影響を受ける、ということです。

もうちょっと詳しく説明があると嬉しいです。どういうシステムがそのような問題をもたらすのか(ルールが意識されにくくなるのかな)、また「一部のゲーム」とは具体的に何なのか、「嫌われている」というのはどこで表明されていることなのか、ポインタを希望。いや私は全く浦島太郎なので&RPGは買う前に中身を見られないことが多いので地雷原を事前に避けられるとありがたいのです。

偉大な兄弟はぼくらの同時代人 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

今年の初め頃に、ちょっとそういう話題が盛り上がった時期がありまして、リンク集は
http://trpgnews.g.hatena.ne.jp/accelerator/20080203/p13
http://trpgnews.g.hatena.ne.jp/accelerator/20071014/p1
あたりにあります。好き嫌いの話も混ざっていたと思います。

 一部のゲームの具体例ですが、TRPGですから、システム/シナリオ/マスタリングによってその程度は異なってきます。ただ、私の記述は、FEAR系と言われるゲームを想定しています。 簡単な解説は、
http://www32.atwiki.jp/njtrpg/pages/40.html
でしょうか。


 そう言ったゲームには、「事故」と言われるセッション進行自体が行き詰まるトラブルを避けるための様々な工夫がしてあるのですが、これがある意味で足枷のように感じられることがある。でも、一概に悪いと決めつけるものでもない。

 地雷原というほど悪いものではないです。大勢の人達は楽しく遊んでいるわけですから。一方で、D&Dあたりと比較すれば、強い制約がかかっているのも事実。そして、同じくプレイスタイルに対して強い制約がかかっている、いわゆる「第3世代TRPG」にはそれほど違和感を感じないオールドゲーマーが、FEAR系の制約に対しては悪い意味での違和感を感じることがある。D&Dなどをプレイしていないプレイヤー達がそれらに無批判であるのが気になることがある。その辺を、「アーキテクチャ支配」「服従意識の希薄化」という概念と言葉で上手く説明できるように感じました。


 一方、法哲学の観点から「個人の自由を抜きにした方が効率よく皆で気持ちよくなれる可能性」が示されています。TRPGの勝利条件が

参加した全員が楽しかったと言えること (「SW2.0」*1 p.9より)

であるならば、勝利(ゲームにおいて目指すべきもの)のためにはプレイヤーの自由意思への配慮は二の次となるわけです。これはこれで、FEAR系のセッションコントロールに理論的正当性を与えるものでもあります。



 Brittyさんは大屋先生の別の本も紹介されていますが、科学哲学すらもてあましている私には少々荷が重そう。と思って http://d.hatena.ne.jp/asin/4326402393 を見てみたら、なんだ gginc さんが買ってるじゃないですか。そのうち何か書いてくれると勝手に期待。