k-takahashi's blog

個人雑記用

ユーロゲームは複雑化しているのか?

つまり、「ある程度の労力負担をプレイヤーに求めても支障はない」ことが前提となり、「初回のプレイでは指針が見えず醍醐味に触れられないようなものであっても許容される」ことがデザインサイドからも共通認識となり、むしろ積極的に「何回もプレイしないと醍醐味に触れられないようなゲームが、ゲーマーズゲームとしては価値が高い」と評価されるような土壌になってきたのではないかという気がする。

これをゲームシステムの進化と呼べば呼べるし、進化の袋小路と危惧するのも一理も二理もあると思う。

パワープレイをするプレイヤー層と、それを前提としたデザイン - bqsfgameの日記

懸念自体は理解できるのですが、ユーロゲーム(ドイツゲーム)自体についていうならば、サイクルの途中という見方もできると思う。カタンカルカソンヌを切れ目と捉え、カタン以降重量級のゲームが増え、カルカソンヌ以降ファミリー系が増え、という歴史を経ているわけですし。実際のところは安田均先生のコラムとかを何年分かひっくり返すかなにかしないと流れは分かりませんが。記憶の限りでは、「軽い」ゲームも結構紹介されていたと思います。(いわゆるノミネート作とかでも)。

近年のユーロゲームは、そうした部分が失われてしまっており、ホームパーティーの席で出すゲームをどれにしようかと考えると、結局、80年代から90年代前半のゲームを押入れから引っ張り出すことになるような現状は結構、痛いような気がする。

パワープレイをするプレイヤー層と、それを前提としたデザイン - bqsfgameの日記

というのも、カタンが95年だから「カタン紀元前」を指しているのかと。


 深く掘るか、間口を広げるかというのはどんな娯楽でもサイクルとして繰り返すもので、逆にそのサイクルが回らなくなるとそのジャンルはビジネスとして袋小路なのだとも言えます。個人的には、まだ回っていると感じているのであまり心配はしていません。


 もう一つあって、例えば「6ニムト」と「アグリコラ」があるとして、どちらがパーティゲーム向けかというのは実はあまり自明ではないと思っています。勝てるかどうかはともかくとして、1回目のプレイの時に楽しさがどのくらいあるか。「6ニムト」の最初の頃は「なんとなく」感を結構感じた印象があるんですよ。