付録ゲームは「文禄の役」。戦い自体は歴史で習うと思いますが、ゲームテーマとしてはドマイナー。システムは「信長最大の危機」をベースにしたもので、優秀だが手数が足りない日本軍、大軍だが動きの鈍い明軍、活発だが規模の小さい朝鮮軍といった位置づけ。
ゲームバランスはしっかり取れているとのことですが、ゲームとしては、信長を遊べばいいような気もする。
座談会は、シミュレーション性とゲーム性の両立の話。
その前に、まずヒストリカル性とシミュレーション性の違い。ミッドウェー戦で日本空母が4隻沈むかということを例にして語っている。状況を再現(シミュレート)するとして、そこから出てくる結果には「振れ幅」がある。この振れ幅を歴史の再現(ヒストリカル)に向けて制御するかしないか、というようなことになる。 但し、座談会ではこれ以上の深入りはせず。
本題の方では、さらに「エンタテインメント性」という概念を再確認。「ゲームとしてのエンタテインメント性」と「シミュレーションとしてのエンタテインメント性」を分ける。(つまり、どちらも楽しいの方向性が別)
そして、両立を目指すべきだが、両者はトレードオフになることが多いというような話になる。
今回の座談会は、この辺の言葉の整理をしたということかな。
CDSはヒストリカルとゲームエンタテイメントを立てたけれど、シミュレーションエンタテインメントの観点が弱い、とかになるのかな。
柿崎氏のコラムでは、似た問題を「戦国大名」を題材に語っている。戦国大名では多くの要素が単純化・抽象化・簡略化されていることを様々な事例を挙げて説明し、シミュレーション性は粗いが間違ってはないという解説をし、それでも戦国大名のシミュレーション性は低いという結論を出す。そして、最後にこのようにまとめて、あとは後半(次号)。
一般にウォーゲームデザイナーは1つの事例を表すのに2つ以上の案がある場合、手順が同じであれば、よりヒストリカルであり、よりシミュレーションであるルールを採用する傾向がある。それがシミュレーションゲームの世界である。
そう、だから、我々の探索は方向を変えるべきなのである。
「戦国大名」について、語るべきはその「シミュレーション性の低さ」ではない。「戦国大名というゲームは何故このように低いシミュレーション性に甘んじねばならなかったのか」、それを語るべきだろう
座談会で出た言葉を借りれば「なぜ、戦国大名はシミュレーションとしてのエンタテインメント性を捨てたのか」ということかな。だとすれば、「ゲームとしてのエンタテインメント性を重視したから」という結論になりそうだけど、次号に期待。