k-takahashi's blog

個人雑記用

ポーランド電撃戦

ポーランド電撃戦 (学研M文庫)

ポーランド電撃戦 (学研M文庫)

山崎雅弘氏の二次大戦もの。今回はポーランド戦。
タイトルとは裏腹に、例によって開戦までの経緯を丁寧に解説してくれている。約450ページで、開戦するのは246ページ目。


1938年秋まではむしろ、ポーランドとドイツの関係は友好的ですらあった。ドイツにとって主たる敵はフランスとソ連であり、ポーランドはそれらの敵に対抗する同盟国的な位置づけだったのだ。
(p.104より引用)
それが急速に悪化していく。原因は例によってヴェルサイユ体制。ダンチッヒ問題である。
ポーランドの歴史的経緯(幾度にも渡る分割という経験。これは本書でも詳解されている。)からくる、領土問題へのポーランド国民の過敏な反応と、ドイツ系住民が多く住む地域をむりやり取り上げられたドイツの不満とで、両国は穏当な妥協点を見いだすことができなくなり、それが、英仏ソの思惑と重なり合って戦争へと転がり落ちていく様子は、のちの歴史を知るものにとっては暗鬱たる思いが募るばかり。


 また、独ソの間に入って上手く立ち回ればと甘い考えのポーランド政府の様子は、数年前の韓国政府や今の日本政府の夢想論を見るかのようで、実に薄気味悪い。


 後半はポーランド戦の解説。
タイトルとは異なり、この時点では電撃戦はまだまだ未熟な状態で、

だが、グデーリアンの「敵情が不明でも構わず前進せよ」という命令は、それまでのドイツ陸軍の戦術教義からは大きくかけ離れていたことから、第四軍団に所属する師団長や連隊長の中には、まだ彼の真意を理解できていない者も多かった。そのため、ポーランド戦の序盤では、前線指揮官が慎重策をとって「停止」や「待機」あるいは「後退」などの命令を下し、軍団長グデーリアンを苛立たせるという出来事が何度も発生した。(pp.289-291)

だった。
電撃戦の力点の一つである航空についても

開戦から三日が経過した段階で、ドイツ空軍はいまだ、ポーランド空軍の撃滅、あるいはポーランド一帯の制空権掌握という目標を、達成できていなかったのである。(p.319)

という状況。翌年の対仏電撃戦ほどの切れ味はまだ発揮されていない。
ポーランド軍の反撃作戦もあったが、重要な兵力は「フランスからの攻撃に合わせて行う反撃」のため温存され、そのまま時機を逸してしまうということもあった。


 そして、とどめとなるソ連によるポーランド攻撃。このときのポーランド政府の対応が涙を誘う。
まず、英仏の態度は、最初から

チェンバレンは、あたかもポーランド政府との間に締結した相互援助条約など存在しないかのように、冷たく言い放った。
「今となっては、ポーランドが(ドイツ軍に)蹂躙されるのを防ぐために我々(英仏)ができることは、何もないのです」
言い換えれば、イギリス政府はドイツとの戦争が長期化するとの観点から、限られた軍事力を序盤で喪失することを恐れて、当面は兵力の温存と増強を図り、ポーランドの戦争努力については事実上「見捨てる」態度を貫く方針をとったのである。(p.292)

であった。そして、さらにソ連の侵略が始まるが、

哀れなポーランドに対し、火事場泥棒のような態度をとるソ連に対して、なぜ宣戦布告しないのかという国民の圧力に耐えかねた英政府は、遂にポーランド政府に対し、秘密議定書の内容を公開するよう圧力をかけた。
既にルーマニア国内へと脱出していたポーランド政府は、内心では苦々しく感じたものの、亡命政府が今後も存続できるか否かは英仏両国の支援にかかっていたため、モシチツキ大統領は英政府の要求を受け入れ、九月十八日に秘密議定書の内容を公表した。

となってしまう。結局、その後でソ連の衛星国にされたポーランドがまともな主権を回復するのは冷戦終結を待たなくてはならなくなる。過去の経緯があるとはいえ、この1,2年の政治的失敗で半世紀というつけを払わされることになったわけだ。


 やはりなんと言っても面白いのは前半。山崎氏は、

フィクションの世界では、第二次世界大戦の勃発を回避するため、過去にタイムスリップした主人公が独裁者アドルフ・ヒトラーを殺害する、という筋立てを見ることがあります。しかし、実際に一九三九年当時のヨーロッパが置かれていた状況を詳しく検証すると、単に「ヒトラーさえいなければ」戦争は起きなかったというような単純な世界ではなかったようにも見えます。(あとがき、より)

と述べているが、私は逆に「止めるチャンスは何度もあった。それらを全部ミスったから戦争になった」という感想を持った。そういったことを考えるための資料が大量につまっているのが前半部分なんです。


 日露戦争ポーランドの話も出てくる。ポーランドと日本はどのように協力するべきかという流れからなのだが、積極的に対露反乱を起こそうとする勢力(ピウスツキ派)と消極的な行動で間接的に日本を支援しようとする勢力(ドモフスキ派)の両方から日本へのアプローチがあったのだそうだ。明石大佐はドモフスキに紹介状を出していたとのこと。まあ、当時の常識から考えて日本の勝機は小さかったわけで、ドモフスキ派の考えが妥当だったのだろう。


ところで、1930年代のポーランドの外交方針については、こんなものがあったのだそうだ。

ピウスツキは、ポーランド人が味わった苦難の歴史と、自国が置かれている地政学的な立場を考慮した上で、ポーランドが独立国家として延命するためには、周辺の大国との間でバランスをとることが不可欠であると考えていた。
そして、東の大国ソ連と西の大国ドイツが、同時にポーランドにとっての脅威となった時、救いの手をポーランドに差し伸べる国があるとすれば、それはフランスとドイツの二国間の力関係だけを重視するフランスではなく、伝統的に「勢力均衡外交」を展開してきたイギリスだと理解していたのである。(p.106)

残念ながら、うまく運用はできなかったようだ。これは、我々日本にとっての教訓でもある。