k-takahashi's blog

個人雑記用

プレイ・マターズ

 

ゲーム研究では定評のある一冊。たしかに色々なことが書いてあってそこは面白い。そういう事例とか、そういう捉え方もあるのか、というところが広く押さえられていて、ゲーム研究する人なら確かに読んでおく必要があるだろうなとは思った。

遊びとゲームを分けて、遊びの重要性を訴える(なので、プレイ(遊び)がマターズ(重要だ))。訳注にはマターには「モノ」という意味も含まれているとあり、モノというところからノーマンのアフォーダンス的な話にも繋がる。ただ、デザイナーの位置を一生懸命引き下げようとしている理由はどうもよく分からない。デザインを通じたコミュニケーションの努力と、受容したコミュニケーション(体験)をどう捉えるかとは分けていいと思う。

 

「それは本当に考える対象にするべきなのか?」「それは本当に課題にするべき事なのか?」という風に感じる部分も多く、我田引水というか藁人形論法というかそういう印象も受けた。まあ、この辺は私が専門家でなくて課題意識を正しく認識できていないからかもしれない。
また、ルールは必ずしもまもらなくてもいい、それが遊びだ、みたいな言い方は、イジメの正当化と紙一重な主張なので、もう少し慎重に扱わうべきだと思う。が、遊びをゲームの上に置き、政治的主張を遊びの上に置くのであれば、そういう正当化になるだろうな、とも。

 

その辺の違和感を特に強く感じたのが最終章の「コンピュータ時代の遊び」。

思い切っ たことを言ってみよう。あらゆる電算処理は遊びである、と。(No.2256)

大半の人や利用者であるが、そうでない遊びをする人もいるということなのだが、そんなものは半世紀以上も前から続くハッカー文化そのものであって、それを殊更に言い立てるのであれば言うための理由の説明が必要なはず。どうもその辺が薄い。この章から類推するに、他の章もそういう説明というか位置づけの部分が弱いのではないか(私が分かって無いというのを差し引いても)という気がする。

 

とは言え、読んでおく(目を通しておく)価値はある一冊。注も(原注、訳注ともに)充実しているしね。