初代PSからPS4辺りまでの話を、開発メンバー、北米スタッフ、CTOなどのポジションを歴任した茶谷公之氏が回想した一冊。
初代PS発売のほぼ1年前、SCE創業直後の1993年11月に面接を受けるところから始まる。
PS3辺りの苦労話や、社内イベント、人との交流辺りの話が興味深い。
以下、自分用メモ。
目的は初代プレイステーションでコンテンツダウンロードするための安価なハードディスクを見つけてくることだった。
COMDEX/Fallは米国ネバダ州ラスベガスで年1回11月頃に開催されていた。COMDEX/Springは当時米国ジョージア州アトランタで5月頃に開催されていて、ジョージアワールドコングレスセンターが会場であった。
(中略)
この話は、1994年12月の初代プレイステーション発売まで、まだ半年以上も前の話である。いまやソニーグループの屋台骨のひとつとなったプレイステーションのオンライン・デジタルコンテンツ配信事業の萌芽は、この時期から始まったと言っていいだろう。実際、この時から、PS3時代の2006年にPlayStation Networkを立ち上げるまで10年以上が経過していたが、初代PlayStationの発売以前から検討はしていたのだ。(No.322)
PS発売前からコンテンツ配信の準備をしていたというエピソード。
1994年秋に、ソニー社内の展示会やエレクトロニクスショー(現CEATEC)でデモ展示をした話。そう言えば、当時テレビで見たな>エレショー
多くの会社は自社で持つプロダクトをプレイステーションのプラットフォームホルダーであるソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)に買ってもらおうという目算でアプローチしてきていた。 彼らの希望通りに対応していては、いくら資金があっても足りない。そこで、逆転の発想的に、プレイステーションのライブラリAPIなどの技術仕様を開示する事で、彼らがプレイステーション対応のツールやライブラリ・ミドルウェアを開発し、ゲームデベロッパーに売る事ができるようにした。(No.605)
PS開発ツールの話。ツールのライセンスビジネスみたいなことも茶谷さんが対応したいたそうだ。
実装機能の差や映像表現の細かな差異を指摘され、このレーティングであるゲームのプレイステーション3版よりもXbox360版の方が高いレーティングを受ける事があった(No.3015)
PS3の開発ツールがあまり良くなかった件についての証言。
プレイステーション4ではシステムアーキテクチャにメインのゲームシステム部分がスリープ状態になっていても、ネットワークからのコンテンツダウンロードが実行できる形に構成を進化させて貰った。 これには検討途中だった半導体チップや回路構成などの改良が必要だったので、最初はちょっとした反対にあったのだが、関係者の皆さんには無理を言って進めて貰った。この実現には、のちにソニー・インタラクティブエンタテインメントの副社長に就任されるプレイステーションハードウェアの設計を統括されていた三浦和夫さんと伊藤雅康さんの貢献に言及しておきたい。 この進化により、プレイステーション3時代に発生してしまっていたネットワークコンテンツの配信にまつわる機会損失がプレイステーション4では最小限に抑えられた。 この仕組みがある事で、プレイステーション4以後のプレイステーションにおいてプレイステーションネットワークビジネスに大きく寄与したと考えている。この事は、僕のプレイステーション時代16年間での最大の貢献だったかもしれない。
(No.3664)
いまとなっては当然の機能だが、コンテンツ配信に関わる機能をプラットフォームレベルできちんと作り込んでおくことを実現したのに茶谷氏がかなり貢献しているとのこと。