k-takahashi's blog

個人雑記用

漢書に学ぶ「正しい戦争」

漢書に学ぶ「正しい戦争」 (朝日新書 134)

漢書に学ぶ「正しい戦争」 (朝日新書 134)

 朝日新書の軍事関係本というと、ホホイ語文書の代表作「反戦軍事学」が知られており、評価は最低に近いわけです。その同じレーベルからこういう本が出るというのも不思議な話で、編集部に見る目はあるというのを示すわけです。では、なんであんな本が、というのは色々と大人の事情とかもあるのでしょう。


 著者は、軍事力を「真剣」と称し、現在の国際社会においては、真剣を抜くことが要請されるという現実に向き合わなくてはならないと指摘した後、以下のように述べる。

 結局のところは、「進歩・左翼」知識層も「保守・右翼」知識層も、「真剣を持ったら、今度は、いかに抜かないで済ますか」という議論を怠ってきた。こうした怠惰は、日本が実際に「普通の国」としての構えを手にした暁には、途方もない知的な負債を負わせるものになるであろう。「真剣を持ったら、今度は、いかに抜かないで済ますか」という議論は、「そもそも、どのような条件の下でならば真剣を抜けるのか」という点を冷徹に見極める態度を前提にしているけれども、そうした態度が伴わなければ、日本の人々は、「真剣」の取り扱いを誤った戦前期の失敗を繰り返す羽目にならないとも限らないからである。(pp.9-10)

本書は、この問題に対して、漢書の「義兵」「應兵」「忿兵」「貪兵」「驕兵」の5分類に答えのヒントを求めている。


 「利人土地貨宝者、謂之貪兵、兵貪者破」(人の土地、貨宝を利する者、之を貪兵(たんぺい)と謂う。兵の貪る(むさぼる)者は破れる)。端的に言えば20世紀初期頃の帝国主義みたいなもの。
 「恃国家之大、矜民人之衆、欲見威於敵者、謂之驕兵、兵驕者滅」(国家の大なるを恃み(たのみ)、民人の衆き(おおき)を矜り(ほこり)、敵に威を見さん(しめさん)と欲する者、之を驕兵(きょうへい)と謂う。兵の驕る(おごる)者は滅ぶ)。軍事パレードとか核兵器国威発揚をとかそういうもの。
 著者は、この2つについては現在の日本で問題となるとは考えにくいとしている。


 一方で、「争恨小故、不忍憤怒者、謂之忿兵、兵忿者敗」(小故(しょうこ)を争いて恨み、憤怒して忍ばざる者、之を忿兵(ふんへい)と謂う。兵の忿る(いかる)者は敗れる)。これは民主国家が注意しなくてはならない軍事だとしている。感情が優先して政策判断を誤ることを戒めるもので、戦前の満州を巡る日本の政策判断ミスなどまさにこれだった。注意しなくてはいけないのは、感情優先で判断を誤るのは、軍を動かすことだけでなく、より広い概念だということであり、反核平和感情がまた国家政策判断を誤らせることも含まれるのである。
 忿兵を避けるには、国民感情が直接政策に反映させない仕組みが重要だが、国民感情と国民の判断を明晰に分けることができない以上、これは民主主義の建前に反しかねないということになる。結局のところ、国民が成熟するしかない、おそらく本書で最も重要なポイントはここなのだろう。


 「敵加於己、不得已而起者、謂之應兵、兵應者勝」(敵が己を加し(おかし)、やむを得ずして起つ者、之を應兵と謂う。兵の應ずる者は勝つ)。これはいわゆる防衛戦争のことである。問題は、應兵を正しく認めることとニセの應兵を排除することとの両方が求められることであり、これが難しいのは言うまでもない。また、應兵を認められるには、装備やドクトリンの透明性が必要となる。米国の強大な軍事力が、他のいわゆる先進国に向けられる現実的な恐れがないのは、両者の間に透明性が確保されているからである。逆に透明性の無い国が應兵を口にしたところで信用はされない。特殊性を口実に、理解されがたい行動をとっていては、應兵の条件が満たされないのである。(日本は唯一の……とか、憲法が……とか言うのが、他者に理解されない限りは無意味どころか有害だ、というわけです。)
 「救乱誅暴、謂之義兵、兵義者王」(乱を救い暴を誅する、之を義兵と謂う。兵の義なる者は王たり)。いわゆる国際貢献がこれにあたる。しかし、義は正義の義である。と言えば、これがいかに難しいかは容易に想像できよう。


 この5つの「兵」が、言うは易し、行うは難し、であることを、本書では具体例を挙げて細かく説明している。しかしながら、これを行うことを目指さなくてはならないのである。


 本書の最後で著者は、「ハト派」「タカ派」に対して「フクロウ派」を提唱している。タカ派ミュンヘンの失敗を恐れるが、驕兵の危険が潜んでいる。ハト派真珠湾の失敗を恐れるが、効果のない融和に結びつきがちである。フクロウ派は第一次大戦勃発の失敗を恐れているが、現実問題に対して麻痺を起こしがちである。
 おそらくこのフクロウ派についての部分だけで、本が一冊書ける内容があるのだと思う。著者はフクロウ派を標榜しているようであるが、それならばフクロウ派の「麻痺」問題に対して本来であれば、丁寧な対策提示がなされる必要があるはずだから。
 ただ、著者がここでフクロウ派を持ち出したのは、日本の論争が神学論争化し、実りのない議論を繰り返してきたことへの対策提示の面が大きいのだと思う。二項対立の構図から鼎立の構図に切り替え、さらに「3者ともに必要であり、その必要性は正邪好悪を越える」とすることで幅広い意見の存在を促し、もって実りある議論ができる国となって欲しいとの願いがあるのだろう。


 特亜を見れば、貪平、驕兵、忿兵がダメなのは分かる。應兵を目指してきた自衛隊が、救乱の義兵として国際貢献で評価されているのも知られている。しかし、その差はある意味紙一重である。そして、それが分かったからといって、例えば北朝鮮問題に対応し続けるのは楽ではない。
読んでもすっきりしない本です。正直、これはきついなと思います。日々の国際ニュースを聞きながら一々こういうことを考えるのは、現実問題としては私には無理。でも、こういう考え方があるというのを教養として理解しておくのは、有権者の務めなのでしょう。