「脳神経科学の最前線」。最前線とは言っても一昨年の本だから、更に先に進んでいることになる。
帯には
物質と電気的・化学的反応の集合体にすぎない脳から、なぜ意識は生まれるのか。
実験成果などをふまえ、人工意識の可能性に切り込む
とあるが、前書きにはさらに
未来のどこかの時点において、意識の移植が確立し、機会の中で第二の人生を送ることが可能になるのはほぼ間違いないと私は考えている。
とあり、更には学会誌のインタビュー(file:///D:/download/34-4_587-590_L01%E5%AD%A6%E7%94%9F%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A0.pdf)には、
20 年後の意識のアップロードを目指して研究を進めています
となる。一体、この話の根拠は何だろうか?というところが本書に書かれている。
もともとは、サイエンスメールのインタビューを読んで「なんだ?この先生は」と思って本を読んでみたら、面白いのなんの。
先生の重要な提案が「意識の自然則」。自然則の例が「光速度不変の法則」。相対論の前提の一つだが、これが自然科学の対象となるのは、「自然則にもとづく仮説の提案と、実験による仮説の検証の繰り返し」が可能となるから。
本書の終盤では、「意識の自然則」とその検証方法との概要が解説されている。もっとも、素人の私にはそれが本当に検証になっているのかの判断はつかない(巧妙な実験の数々と、その実験の限界といったものが、本書には何度も出てくる)。ただ、少なくともそれなりに説得力があり、自然科学の言葉で議論・検証できるものだろうなという感想は持った。
簡単にサマライズすると本書の面白さは欠けてしまう(細部に宿るというやつです)ので、興味のある方は御一読を。
幾つか面白かったところを自分メモ。
NCCを次のように定義している。"The minimal set of neuronal events and mechanisms jointly sufficient for a specific conscious percept" 直訳すれば「固有の感覚意識体験を生じさせるのに十分な最小限の神経活動と神経メカニズム」だ。
(中略)
NCCの意味を明らかにするために、目の前に置かれた赤いリンゴのクオリアを例に考えてみよう。はたして網膜は、NCCに含まれるだろうか。
目をつむれば、リンゴはおろか、視覚世界のすべてが意識から消失する。また目をあければ、リンゴは再び視界に入り、そのクオリアが成立する。これだけをみれば、脳の出先機関とも言える網膜は、リンゴのクオリアの成立に必須であり、NCCに含まれるべきもののように思える。
しかしながら、私たちはリンゴの夢を見る。そして、夢を見ている最中の脳は、環境から完全に遮断されている。夢の中のリンゴは、眼球の助けを一切借りずに、脳がゼロから創り出したものだ。
よって、網膜はNCCから除外される。NCCの「最小限」の条項に抵触するからだ。
(pp.117-118)
どこまで高次の視覚部位にいっても、意識とそこに表現される視覚情報が完全に一致することはない。視覚体験が、完全なる「見え」と完全なる「見えの消失」を行き来する一方、ニューロン活動がそこまで極端に振れることはない。提示された刺激が完全に意識から消失していたとしても、刺激が物理的に提示されない条件と比べれば、ニューロン活動は確実に上昇している。
すなわち、意識にのぼる視覚世界がそのままの形で表現される脳部位は存在しない。よって、脳のどこかに意識の中枢が存在し、それが意識を一手に担っているとの図式はあてはまらない。(pp.174-175)
意識の自然則の一般系は、この「取り込み」にあるのだろうと筆者は考えている。必ずしも、地球型の中枢神経系の形をとっていなくても、何かが何かの因果的関係性を取り込んだとき、そこには、取り込んだものの感覚意識体験=クオリアが生じるのではなかろうか。
だとすれば、自動運転車などには、すでに意識が生じていることになる。各種センサー情報をとおして、外界の因果的関係性を取り込み、事故回避などの自らの行動に反映させているからだ。(pp.303-304)
あと、読んでいて「あ、これイーガンで読んだ」というところがポチポチと。なので、イーガンファンの方にもお薦め。
(追記 2019/9/8)
意識と情報処理の関係からNCCを絞り込んでいくところの実験が非常に面白かった、というのを書くのを忘れてた。実験装置、実験手法を工夫していくところは、なにしろ相手が相手(意識という訳の分からないもの)なので、大変そうでかつ面白い。
昔、「超能力をどうやって測定するか」という話題があったのを思い出した。(例えば、実験者と被験者のどちらに超能力があるのかはどうやって分ければいいか、など)